時代と共に歩んだ傑物

トラオ 徳田虎雄 不随の病院王青木理
 最近また読書のペースが上がっているのでまた書評を幾つか書いていきたい。
 本書は医療法人徳洲会の創設者であり前理事長の徳田虎雄の一代記だが、この人物に関してはこれまで医師会と対立している人、自由連合という政党を立ち上げ政治にも関わっている人、そして前都知事辞任にも繋がった徳洲会事件などダーティなイメージしかなかったのだが、本書を読むとそれが全く一面に過ぎない事が分かり、その数々の突き抜けたエピソードが面白くて3日ほどで読み終えてしまった。

 本書はまず徳田の現況(2011年当時)の描写から始まる。徳田は現在ALSという全身の筋肉の力を失う難病に罹患し、この病気は筋力は失うが意識、感覚は維持されるので最後に残された眼球の動きで文字盤を指し示して意思疎通を図り、自分の病室に備えられたモニターで各地の病院を視察しつつ、事業判断の最終決定権を握っている。難病に伏して尚トップとして采配を振るうエネルギーには圧倒されるが、その後に語られる徳田本人の歩みを振り返ると決して不思議ではないのだった。
 この人物を評するにあたって著者は「きわもの」、「大いなる田舎者」という表現を用いており、それは決して否定的なニュアンスのみを意味しないのだが、ふと以前Wikipedia洪武帝の項に出てきた一節を思い出した。清朝の学者がこの明の初代皇帝を評して述べた言で「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」というもの。盗賊かは別として、故郷徳之島を始め過疎が進む離島や僻地に病院を建て医療水準の向上に取り組む姿は“聖賢”だし、一方で目的地に一刻でも早く着く為に運転手に信号無視や歩道、側道、対向車線走行を躊躇なく命じ、選挙期間中には対立候補の事務所に原付で単身乗り込んでスイカを食って一言声をかけてそのまま立ち去る、と言った様な“豪傑”の一面もある。単なる悪玉、善玉ではなく、その両性を兼ね備えた稀有な人物であることは間違いない。いや人間誰しも両性備えているもので、この人はそれが極端に表れた例と言えるか。もっとも本人は善か悪かなど意識しておらず、「正しい目的の為に用いられる手段は全て正しい」というある意味恐ろしい理論で全て繋がっているらしい。ちなみにだが前述の歩道運転のエピソードを読んで、ジョジョ3部でディオが渋滞して進めないと言う運転手に対して空いている歩道を走るよう命じたシーンを思い出してしまった。まさか同じ様な事を実際にやる人物がいたとは(苦笑)上記以外にも数々のエピソードが紹介され、中には法的に限りなくクロに近いもの、もしくは真っ黒な事例(特に選挙関連)もあるのだが、読後には何故か痛快さが勝り、また電車内など外で読んでいる時は笑いを堪えるのに難儀した。

 文庫版ではエピローグとして単行本刊行(2011年)後の徳洲会事件(2013年)についても触れられている。著者は一連の不祥事を批判しつつ、一方で以前には(決して積極的に評価されていた訳ではないが)一定の許容はされてきたこのような人物・行動が今では社会で受け入れられ無くなってきたと感嘆を込めて論じている。昨今の不謹慎狩り、正義厨などもそういった風潮の流れに沿ったものだと思うが、どこかそういった社会に息苦しさを覚え、またこの徳田虎雄という人物に惹かれてしまうのは自分が「以前の社会」を経験しているからだろうと思う。時間が経つほどにそういった社会を経験した世代は減り、(特に21世紀に生まれた)若い世代にとっては「今」がスタンダードになるので、もはやこの流れを止める事は出来ないのだとは思うが。徳洲会事件そのものは徳田の家族と対立し、解任された長年の側近の暴露に端を発するのだが、著者の言う「きわもの」の住処が無くなりつつあるという1つの象徴なのだろう。

 ここで述べた以外にも徳洲会の宗教性、対立する(した)医師会や政治家へのインタビューなど取材内容、対象は多岐に渡っており、著者の取材力の高さも感じさせた。