The Road to Serfdom

隷属への道F・A・ハイエク
 通勤時間中でしか読んでいないので読破までかなり時間が掛かってしまったが、結局全編を通して主張は次に集約される。曰く「一般的に対極にあると考えられている全体主義ナチス)と共産主義ソ連)も、自由主義の対極である集産主義の一形態である事には変わりない。今、その脅威は減るどころか自由主義の本家英国ですらその影響度は増しつつある。」


 読みながら、ジャンルは全く異なるが以前読んだドイツサッカー本を思い出した。そこではナチス時代を全否定していたはずの旧東ドイツが、スポーツ選手は国家の栄光を体現する駒として扱った点では非常に似通っていた事が書かれていたが、ハイエクが唱えたように両者が思想的には同根である事を考えればこれとて不思議ではなく、納得。


 少し話が逸れてしまったが、読んでて伝わってくるのはハイエクの集産主義に対する激しい怒り、そして危機感。これを理解するには、この書が世に出たのはナチス・ドイツの脅威がようやく去りつつあったその直後に今度はソ連が東欧諸国を共産主義化していった時代、そして経済史で言えばケインズ公共投資他政府の積極的な介入を唱え、それが世の“旬”だった時期を考慮する必要がある。著者によれば、この本は余暇の時間を利用して3年間で書き上げたとの事だが、想像するに書く時は意外とすんなり書き上げてしまったのではないかと思う。人間、強い思いがあれば長文もあっさり書き上げてしまうものだし、そういった思いがあれば細かい誤謬もカバー出来てしまう面もある。手前味噌ながらこのblogだってそういう部分が無きにしも非ず(笑)


 まぁそれはそれとして21世紀に生きる自分はその後の展開―――結局完全なる計画社会という実験はソ連や東欧諸国が崩壊して終焉を迎えた―――を知っている訳だが、一方でこの人の唱える自由主義を完全に実行した例というのはA・スミスやリカードの時代を除いては思い浮かばない。80年代のレーガンサッチャー、中曽根政権では、国営企業の民営化(exJR、NTT、JT)など小さな政府志向が強く、新自由主義的な考えが主流だったとされるが、それでも共産主義国程の徹底ではなかった。
 そこなのだ。この書を読んでて納得する部分がありつつも、どこか釈然としないものもまた残ったのは。ハイエク自身も国家の果たす役割についてはその存在自体は認めているのだが、集産主義的な政策との違いついては曖昧だった。何百何千万、あるいは億単位の人々が暮らす国家において、ある考えを100%実践するというのはそれこそハイエクが忌避した特定のグループ(エリート)に権限を与え、他の大多数に対する影響力を行使する(≒隷属させる)社会でもない限りは不可能なのではないかという問いは未だ消えていない。個人ですら常に妥協と向き合わざるを得ない中で、その人間が集まった組織、国家であるならば尚更に。
 という感じでその内容全てに頷く訳では無かったが、経済書というのはとても哲学的な内容に、個人としての在り方としても十分通用するという感想もある。ハイエクの集産主義(特にナチス)に対する強い怒りは前述の通りだが、あの時代にこのような内容の書物を著したというだけでも、まず個人として真の意味での自由主義者、自由人だったと言えるかもしれない。
 ついでながらこれは余談だが、読みながらふと現政権の様々な政策の背景にあるのはどちらかと言えばこの集産主義の方に近いのではないかと。「事業仕分け」などという言葉自体、例え口では「国民の為」を唱えても「仕分ける」人の意思の介入を内包している訳で。まぁ今回の主旨とはズレるのでこの辺で。



 てな事を大学3年の時に考えていれば、今でももう少し脳細胞は活性化されていただろうか?今更言うのも何だが、こういう本は時間のある時、それこそ学生時代にこそ読んでおくべきもの。思い返せば楽勝ゼミに安住して教授には大分迷惑を掛けてしまったから、今回はそのせめてもの罪滅ぼしという意味も込めて。