以前も書いた事が有るが、この人は三国志でいう呂布、あるいは楚漢戦争での項羽のイメージと重なる。それは常に独りで戦っているかのようなプレー振りが、後方に鎮座するよりも最前線で戦う方を好む(とされている)↑の人々のイメージ、あるいは当初こそ勝利を手にしながら、時間が経るにつれてより人材を集め、より組織立った敵(曹操、劉邦)に破れるという呂布や項羽の生き様が、04年に最後のタイトルを獲得して以降、浦和、G大阪、鹿島、名古屋といった人材を揃え、かつ組織的なプレーも披露するチームに苦戦したプレーと重なるが故。
本来なら、毎年キャプテンマークを巻いてピッチ上で名実共にチームを率いていくべき選手だった。リバプールにおけるジェラード、チェルシーのJ・テリー、あるいはバルセロナのプジョルのように。誰もが認めるチームの顔だったけど、だからこそ毎年堂々と腕章を巻いて対戦相手にもサポにもメディアに対しても常に先頭に立って対応していたら、あるいは05年以降何かしら違っていたかもしれない。
30を過ぎてからポジションを中盤に上げて機能したり、センスは抜群だったけど、これほどの選手が何故代表試合数“僅か”40試合で、W杯に一度しか出られなかったのか、という思いもまたある。数字が全てでは無い事は分かっているつもりだが…。
この人の全盛期と言うと、95マリノス年間優勝〜02日韓W杯のシーンが思い浮かぶが、丁度自分の学生時代と重なるので、何とも言えない思いで胸が満たされる。95年の優勝メンバーでは最も若く、去年退団した時は、ふと、これであの時のメンバーは全員(選手としては)居なくなったのだなと思ったものだが…。思えばチーム最年少、そしてU23五輪やU20ワールドユースでの活躍―――この人のイメージは今もこの無鉄砲な、時に危うい若さ、なのだろうな。そしてそれは30代になっても変わらず、今日を以て永遠となってしまった。
様々な思い、問いが渦巻いて何もまとまりがないが、今この時点での思いをここに記し、冥福を祈りたい。