ファウスト(これも第2部を未読のままだが。)以来の古典で、章末の脚注と行き来しながら読み進めるスタイルも久しぶり。内容としては全編を通して痴愚の女神が人生の豊かさ、楽しさにとっての痴愚や瘋癲の必要性を語るものだが、その過程で“痴愚を拒否する真面目な人々”ーーー例えば哲学者や、“本人はそう思ってないが実は痴愚に支配されている人々”ーーー王侯貴族、教皇を含む高位聖職者らに対する皮肉で溢れている。
であるから教会から禁書扱いされたりもしているのだが、興味深かったのは、“痴愚の女神”という設定。『○○の神』と何にでも神を見出してしまうのはギリシャ・ローマ神話にあるようにキリスト教以前のローマ時代はそれが一般的だった訳だが(日本人もその感覚に近い。)、キリスト教が支配する時代になってからは神=唯一神となっていた中で、このようなギリシア・ローマ神話に着想を得たような設定は、(例え内容が禁書扱いされても)そういうものを出版出来るような時代になっていたと言えるだろうか。以前読んだダンテの神曲は1300年頃のルネサンス初期の作品だが、そこではキリスト以前の詩人や英雄(ヴェルギリウスやカエサル)を讃えつつも基本的には一神教的世界の範疇を出なかったのに対して、本作(1500年頃)ではより大っぴらに古代の世界観が書かれている。ついでに言うとファウスト(1800年頃)では魔女や悪魔といった存在ですら忌むべき絶対悪から今日我々が接するのに近いある種のキャラクターとして描写されている。
と比較すると色々なタブーが徐々に取り払われていく様が見えて面白い。その他エラスムスという人はあのルターとも親交があった人で、最後は意見の相違で疎遠になるのだが、本作中で皮肉られている聖職者達の堕落ぶりをみると(幾分か誇張もあるかもしれないが)そりゃ宗教改革(プロテスタント=抗議者の発生)は起こるだろうなと思わされるものであった。
次の古典はファウストの2部は読むとして、そろそろ本作でもしばしば引用されているホメロスを読んでみようかな。イリアスとオデュッセイアを。痴愚神礼賛に限らず他作でもこの2作からの引用は非常に多いので、本家を読むという意味でも。