出場・招集記録から当時を回顧する(アギーレ時代)

 先日のザック時代に続いて今日はアギーレ時代を。僅か半年足らず、10試合だけだったが招集メンバーだけ見ても当時の状況が見て取れる。

・期間:2014年9月~2015年1月
・勝敗:10試合7勝1分2敗(Aマッチ)
・招集:41名

・最初の2試合(ウルグアイベネズエラ)では坂井達弥皆川佑介森岡亮太武藤嘉紀柴崎岳の5人が代表デビュー。坂井と皆川の招集はサプライズだったが、その時限りの招集となったのを見るに、恐らく協会のリストにはなくアギーレ(かそのスタッフ)が視察して独自に選んだんだろうな。まぁCB、CFとしていきなり主力が揃ったウルグアイを相手にするのも荷が重かったとは思うけども。この他試合出場は無かったが林彰洋松原健も招集され、特に先日のモンゴル戦で代表デビューした松原はこのアギーレ時代に2度(15年9月、11月)に招集されていたのだが出場機会は無く、それから5年以上経てのデビュー。

・記録を追っていると先日書いたようにジーコとザックのW杯3戦の流れがほぼ同じように、歴史は繰り返す事例を見かけるのだが、アギーレに関してはファルカンのデジャブかというくらいよく似ている。

・就任から約半年でアジアの大会でベスト8に終わり契約解除
 →ファルカンアジア大会、アギーレはアジアカップ
・上記の坂井、皆川の様にファルカンも独自に選んだと思しき招集メンバーがいて、同じくその時限りの招集となる。
・批判されつつも最終的にはそこそこ良いチームを作るが、最後は惜敗。
 →ファルカンは終了間際のPK失点、アギーレはPK戦敗退

アジアカップは最後PK戦という結果になったがあの試合自体は押し込みつつも決めきれず、PKに「持ち込まれてしまった」試合。サッカーそのものより初戦からメンバーを固定して主力の消耗を招き、最後のUAE戦では交代枠を使い切った後に長友が負傷してほぼピッチにいるだけの状態になるなど、チームマネジメントに課題があった。まぁ本来ならパレスチナ戦は主力を休ませても十分勝てる相手だったが、初戦ということで手堅く行ったのと、2戦2勝で終えてもGL突破を確定できず、3戦目も同じ面子で臨んだということなのだろう。

・このようにアジアカップではメンバーは固定されていたのだが、全4試合でスタメンが全く同じなのにはさすがに驚かされる。

GK川島
DF酒井高徳、吉田、森重、長友
MF遠藤、長谷部、本田、香川、乾
FW岡崎

これに後半途中から武藤(4試合)、清武(3)、豊田柴崎(2)、今野(1)と23名中16名しか起用されず、サブGKの西川東口はともかく昌子源植田直通太田宏介小林悠塩谷司らは出番無く大会が終わってしまった。勝ち進めば出場機会があっただろうが(特に長友が負傷したので太田は次戦スタメンの可能性が高かった)、アギーレにとって信頼に足る選手はそこまで多くなかった、後にW杯メンバーに選ばれる昌子、植田も未だその域には達して無かったということなんだろうな。植田は内田の負傷辞退による追加招集だったので尚更に。


・ザックの項で書いたように、この時期の日本はそれまでの固定化されたメンバー構成の反動で、新戦力、特に若い力が望まれていたと思うが、可能性を感じさせたのは柴崎と武藤ぐらいで、他に強いて言えば酒井高徳、清武、乾といったザック時代からの常連ながらそれまで出番の限られた中堅世代が、戦力になりつつあったという程度。UAE戦でPKを勝ち抜いていればまた違ったかもしれないが、最後にPKを外したのが香川というのはある意味で象徴的だった。リオ五輪世代もロンドン世代に比べると小粒で当時はクラブでレギュラーという選手自体が少なく、アギーレに呼ばれたこの世代は松原と植田の2人だけ、いずれも出場機会無しという辺りに当時の立ち位置が覗える。

・とは言え現有戦力で手堅いチームを作ったのはさすがだなという思いもある。アジアカップでの失点は4試合でUAE戦での1失点のみだったし、大会前に長居でオーストラリアと対戦した時は(数ヶ月後にアジアカップで優勝する)アジアのライバル相手に内容的にも完勝した。しかも岡崎のバックヒールゴールまで飛び出して笑。あのまま監督を続けていたらリオ世代の融合などどうなっていたかな。実はハリルとそう変わりないメンバー構成になっていた気もするが。

・その他西大伍が15年10月の親善試合にザック時代の11年6月以来の代表復帰を果たしているが(出場機会は無し)、この選手はザック、アギーレ、ハリル、森保と4人の代表監督から招集を受けながら、各監督とも招集は一度のみなのはなかなか興味深い(ハリル時代は17年12月のEAFF選手権メンバーに選ばれるも負傷により辞退、森保時代は19年3月の親善試合に呼ばれている)。SBながら攻撃の起点にもなれる技術の高さや視野の広さは代表監督達の目を引くものがあったんだろうけど、同時代に内田篤人酒井宏樹、また右SBもこなす酒井高徳がいた故になかなか代表のチャンスは巡ってこなかった、といったところだろうか。同じ様な立場の選手として他に水本裕貴がいる。オシム時代に代表デビューし、その後岡田、ザッケローニ、アギーレ、ハリルにも呼ばれているのだが、W杯、アジアカップエントリー経験は無し。国内屈指のCBではあるけれど、守備力、高さ、フィードなど総合的に見て中澤、闘莉王、吉田、今野、森重といった選手達が一歩上という判断だっただろうか。

 最後はスポーツ面でもそれ以外でも残念な終わり方になってしまったが、ファルカン同様に前任者の後を引く敗戦(敗退)の余波を食らってしまったのと、世代交代したくても選手がいない難しさもあってその尻ぬぐいをさせられたという意味で同情すべき点もある監督だった。