アルゼンチン戦前に

【序文代わりに】
 もう何時からNumberを読まなくなっただろう?あるいはサカマガ、サカダイを立ち読みで済ませるようになってどれ程経つだろうか?(WSDは今日も相変わらず買ったけど。)その理由を挙げればライターの文章が醸し出す『暑苦しさ』に耐え切れないから、という表現に落ち着くのだが、よく私が多用する、“暑苦しさ”とは一体何か、というと自分でもよく分からなかったのが正直な所だった(苦笑)だが先日ふとした事からそれに近付く思考の突破口を掴んだので、ここで備忘録代わりに記しておく事にする。数年後、この文章を見て哂う事になるか、納得する事になるか。どうだろうか。ただ、新しい監督の緒戦を控えた今書くと言うのは中々良いタイミングかとも思う―――


 先日、そろそろまたあのスペシャル大河が始まるなーと思いながら某フリー百科事典でこれの原作のページを見ていたら、次の様な下りに出くわした。曰く、

(『坂の上の雲』とは、)封建の世から目覚めたばかりの日本が、そこを登り詰めてさえ行けば、やがては手が届くと思い焦がれた欧米的近代国家というものを「坂の上にたなびく一筋の雲」に例えた切なさと憧憬


 これを見た瞬間、何かが一気に溶解したような気がした。説明するにまず↑の言葉を少し入れ替えてみる。

マチュアの世から目覚めたばかりの日本サッカーが、そこを登り詰めてさえ行けば、やがては手が届くと思い焦がれた欧米的近代サッカーというものを「坂の上にたなびく一筋の雲」に例えた切なさと憧憬


 基本的に日本のサッカーライターの文章て殆ど(全てではない。)↑が基準・出発点で、それがこれまで感じていた違和感の理由なんだろうと思う。現状とのズレ、とも言えるかな。
 確かに「アマチュアの世」から目覚めて10年ばかしは選手のレベルも右肩上がりだったし、“やがては手が届くと思い焦がれた”時間でもあった。それまで夢だったW杯出場を決めたり、自国で開催したり、決勝T行ったり実績も順調に積み重ねていったし。でももうそろそろこの視点から脱却しても良い頃かと思うし、もうそういう時期で無い事を多くの人は意識的にせよ無意識にせよ何となく感じているような気がする。


 別に向上心を捨てろとか言ってるんではなくて、これはより成熟した視点を持つべきではないかという問いかけ。丁度、経済の高度成長を終えた国が、経済的・文化的に成熟した国家を目指すように。
 例証するにはメキシコが分かり易い。この国は体格面でよく日本が模範にすべきと言われているが、W杯ではここ4〜5大会ずっとベスト16の壁を越えられないでいる。(まぁ今回・前回はアルゼンチンと当たる不運はあったけども。)それでもこの国はU17W杯で優勝したり、クラブレベルでは南米の大会でも躍進したりと、今出来る事をやり切っており、最近は欧州でプレーするメキシコ人選手も増えてきた。
 右肩上がりの成長を前提にした物語―――そこには途中立ちはだかる強敵という重要な要素が必要で、アジアなら例えば韓国やサウジ、イラン、それ以外ならW杯で対戦する国々―――というのは分かり易く、惹き付けるものがあるし、上手く回っていればそれは楽しい時間だとは思うんだけど、一方でこの物語には欠陥もあって、それは勝負事で有る以上常に右肩上がりに成長し続ける訳では無いという現実。代表は02年でベスト16に進出したが、06年で一旦停滞し、10年に再び上昇気流に乗りつつあるが、今時点で14年の躍進が約束された訳では無い。あのメキシコでさえベスト16の壁をずっと破れないでいる中で、世界の200以上の協会の中のベスト8以上というのがいかに難しいか。


 高度成長物語に代わって、そろそろ別の視点、例えばサッカーのスタイルそのもの(美しさとか、勝負強さとか)に主軸を置くとか、そこにJなり代表なりサッカーがある事を前提にした上でのクラブ間の、クラブ内の人間模様とかそういう視点が重要になるのではないかと思う。要はWSDの巻末コラムみたく客観性と主観性のバランスの取れた文章なんだけど、そういう視点で日本のサッカーを書いた文章がなかなかお目にかかれないのは残念だ。


 明日は引越し後に上期打上げ兼歓送迎会もあるので、完全情報シャットダウンして帰った後でゆっくりと録画を視る事にする。もしまたW杯時みたいな大量の実況メールラッシュになったら危険なので、場合によっては夕方から携帯の電源を切る事も辞さない覚悟だ。