全巻読破後の所感

 全15巻を読み終えた今振り返れば、衰退が顕著となった12巻辺りから既にエピローグだったのかもしれない。衰退期の話はどうしたって暗い話題が続くから、勃興期や絶頂期に比べて文章から暗さ、重々しさが滲み出てくるのは当然にしても、それ以上に淡々とした文章から著者の熱気の薄れ―――それまでと比較しての―――が感ぜられた。
 後書きにもあるが、歴史上に名を残した大帝国に対するアプローチの仕方としては「何故滅びたのか?」というものと「何故あれ程栄えたのか?」の2つがあって、それはコップの中に入った半分の水に対して「もう半分しかない。」と捉えるか、「まだ半分ある。」と捉えるかと同じく、それぞれの主観に因る。その中で、著者は「栄華を〜」に重心を置いていた。そんな著者の考える覇者足り得た要素を失っていくと共に、衰退期に差し掛かり、そして著者の熱も徐々に薄らいでいった―――という印象。


 衰退期を描いた中でも特に印象的だったのは、文章ではなくコンスタンティヌス凱旋門を解説した写真だった。この門は4世紀に建立されたものだが、急ピッチで作られた為に中の彫像、レリーフには紀元前後や五賢帝時代からの借用も多く、その頃の彫刻が世界史の図表で見たようなまさにギリシア・ローマ時代といった感じの精巧に人体を模写した作品なのに対して、4世紀のそれは抽象的と言えば聞こえは良いが、(著者は“稚拙”と表現していたが)はっきり言ってしまえば下手クソな代物だった。
 これを著者は国力の反映とし、その為の視覚的な補足資料だったのだろうが、おそらくそれだけでは無くキリスト教の影響も強い気がする。キリスト教が国教化されてからはそれまでの(伝統的な)神々や歴代皇帝を現した彫刻・彫像は片っ端から破棄されたというが、そういう人体を精密に模写する、という行為そのものが要求されなくなった、あるいは忌避された風潮下で自然と“模写レベル”も下がっていったのだろう。帝国滅亡後、つまり中世の絵画・彫像を見ても、この4世紀と同様なレベルに留まっているものが大半で、その流れが変わってまた精巧な作品が生まれ始めたのが古代の復興を掲げたルネサンスだった、というのも興味深い。ミケランジェロダビデ像とかまさにそんな感じで。


 そうそう、14巻でキリスト教、というよりカトリック勢力拡大の貢献者としてミラノ司教アンブロシウス(現ミラノ守護聖人)が挙げられているが、現在ミランアンブロジーニという名の守備的MF(しかもミラン生え抜きだからおそらく近郊の生まれ)がいて、インテルがかつてアンブロジアーナと名乗っていた事実が思い出されて妙に納得(?)出来た。
 

 読み始めたのが丁度新人研修で長距離通勤を強いられていた時だったから、もう2年半以上前か。別にこれだけ読んできた訳ではないが、これで読書に一区切り付いてしまった感覚。もう一回最初から通しで読むか、それとも別の長編を探すか―――