土曜のアルウィン行は色々と思う所があって、とても観戦記には書き切れなかったので補足として別途ここに書いてみる。
■山雅について
このクラブを見ていると90年代末〜00年代半ばにかけての札幌、仙台、新潟を思い出す。代表も90年代にそうだったが、「高度成長期」の高揚感とでも言うか、昇格など目に見える進歩、成果が分かる故に自然と心躍って盛り上がり、何をしても新鮮で楽しいという時期。土曜日も駅の待合室で地元新聞を読んでいたら社会面だか地域面だかのスポーツ面ではない箇所で「ゴール裏の楽しみ方は」と題して山雅の応援についての記事まであったのには驚いた。中身はホームゴール裏で立つ/立たないを強制すべきかどうかといった20年以上前から日本中のクラブで議論し尽くされているようなテーマだったのだが、それが地元一般紙に大きく掲載されている辺りに山雅の熱気を感じた。この前も老若男女、ゴール裏もメイン・バックも皆緑のユニを着てスタンドを染めていたのは壮観だったし、観衆は18906人と記録を更新したようだが、これは先日の日産での新潟戦(19784人)とあまり変わらない。両クラブのホームタウンの人口比を考えたらこれは凄い事だ。
ただ今は2015年なので上記クラブがその後どういう道を辿ったか知っている訳だが、高度成長が終わった後はどこも苦労してるのも事実。降格は勿論、新潟の様に昇格以来ずっとJ1に定着していても観客が減る事もある。高度成長期はソフト、ハード両面で足りない点は多く、頂点(ここではひとまずJ王者としておく)への道は長くとも、それでもこのまま行けば・・・という期待感の方が大きいのだが、低成長時代に入ると、逆に頂点への道のりの長さ(王者との力の差)が現実として突き付けられて、それまで見えてこなかった課題がクローズアップされてしまう、という構図。これでカップ戦のタイトルでも取れたらまた違うと思うが、ナビスコ杯1つとっても簡単にはいかないしな。
一種の祭りのように試合があれば人が集まるという状態が理想なのだろうけど、それには既存世代もそうだが幼少期から刷り込んでいってその世代が大人になるまで掛かる気の長い作業が必要かなと思う。人間小さい頃に受けた情報は後々まで覚えていたり身に付くものなんで。思い返せば自分もサッカーにハマったのは子供の頃に雑誌(父親の務める会社の社内誌だかビジネス誌でサッカーに全く関係の無かった)で偶然観た当時の海外のスター選手(ファン・バステン、クリンスマン、マルディーニなど)のカラー写真が格好良かったのと丁度同時期に代表がオフト監督で強くなってリーグもプロ化してTVで観る機会が増えたのが大きかった。
■山雅サポ
チャントの原曲の多くが80年代邦楽だったのが印象的。ハウンドドック「ff」とかBOØWYの「Marionette」とか。柏も70〜80年代歌謡曲、アニソンが多いが、やっぱコールリーダーとかサポ幹部層の嗜好が反映されてるんだろうな(笑)個人的に80年代以前の邦楽はメロディがシンプルで分かり易く、こういうチャントとの相性は良い気がする。個人的な好みと言えばこの前の試合では無得点だったので聴く事は無かったが、ゴール後に歌うのはあまり好きになれない。更に言えばタオマフを全員で振るのも(これは川崎も同様だが。)。ゴールしたら思い思いに拳を突き上げるなりタオマフを振るなり絶叫すればいいと思ってるので、見ているとどこか強制されてる感が出てしまう。と言いつつFC東京の東京ブギウギはノリが良くて結構好きなんだが(笑)
■アルウィン
アクセスという意味では駅から遠く、駐車場からもシャトルバス利用するほどだったが、それを踏まえても観易さは素晴らしかった。増設の要望なども出ているようだが、雰囲気という点では座席をクラブカラー(緑)に統一するだけでかなりホーム感が増すと思う。日本の場合スタジアムは自治体の所有物なのであまりこういう例は少なく、実現は難しい面はあるが、クラブと自治体が協力すれば等々力の新スタンド(水色)や長野の新スタジアム(橙・黒)様にクラブカラーで座席を染める事も出来る。もし日産が今の様な薄水色ではなくより深い青色の座席だったら、味スタの座席がグレーではなくパリのパルク・デ・プランスのように1階が赤、2階が青の青赤で染められていたらor緑一色なら、大分印象が変わるはず。
クラブカラ―とスタジアムの座席が緑という例を探したが、スコットランドのセルティック(セルティック・パーク)とブラジルのパルメイラス(アリアンツ・パルケ)の2つかな。
記憶してる限りJで使用されるレベルの競技場で座席が緑という例は無いので新鮮で目に映える。
■松本・横浜
今回、色々ネットを見ていて一部マリノスサポが山雅に対して反感を抱いているのを知った。要約すると「たった半年在籍した位でレジェンド扱いするな、商売するな。」という事らしい。ただその感情は言うなれば嫉妬であり、(放出した)負い目の反動なのだろうと思う。「マツは俺たち(マリノス)のものなのに」という独占欲の発露とでも言うか。だが山雅からすれば、3部リーグだった自分たちのところに元代表の有名選手が移籍してきてあのような最期を迎えたら、在籍が半年だろうが一日だろうがその衝撃はいつまでもクラブに関わる人に残り続けるだろうし、伝説的選手として語り継ぐだろう。また結局のところ、いくら当時マリノスサポが最終節後に夜遅くまでスタジアムに残るほど反対の意志を表明していても、最終的に松田はマリノスに契約を更新されず、放出されたのは事実な訳で、そうした(レジェンド級の選手に対してすら待遇が冷たいという)負い目の反動もあるのかなと思う。ちなみにだがむしろ商売っ気を出しているのはこちらの方だと思うが、ここではこれ以上触れない。
負い目と書いたが、4年前にも少し書いたように、マリノスの松田への向き合い方というのは、御霊信仰の一種なのではないかと考えている。これは菅原道真がそうだったように、非業の死を遂げた人物は死後祟りを成すので神として祀ってそれを鎮める、という考え方で、それ故に道真は天神となり、天神を祀る社である天満宮は今に続いている。ここで重要なのは道真が実際に怨念、恨みを残していたかどうかではなく、道真を太宰府に左遷した側(主に藤原氏)の心情。左遷した側に災いと道真の死を結び付けてしまう様な心当たりや後ろめたさがあるからこそ、こうした行動を取る。松田の場合も急逝後ほどなくしてマリノスから背番号3を永久欠番にする旨が発表されたが、井原や木村和司級のレジェンドでも欠番は無かった中での急な決定は、マリノスのフロントに同じ様な後ろめたさや畏れがあったのかなと。言わば代名詞であった背番号3を永遠に松田のものとして祀り、怨念を鎮めるという形。重ねて言うが松田がマリノスに対して実際にどう思っていたかではなく、放出を決めたマリノスフロントの心情の問題。まぁあくまで想像に過ぎないのだが、中村俊輔が将来引退する時に25番、10番がどう扱われるかで少しの傍証になるかもしれない。