ドイツ代表について徒然(中)

 あまり深く考えず前回は(前)と前編ということにしたが、前中後の3回だとどこで区切るか悩ましい。監督で区切ると全4回になり、期間もバラつきが出てしまう。色々考えた結果、単純に時間軸で区切ることにして、今回は1998年フランスW杯の大会後から2002年日韓W杯まで。

  • EURO2000(GL敗退)

 前回に続く準々決勝敗退で辞任すると思われたフォクツだが結局留任となった。W杯後最初の試合は9月にマルタに遠征してのマルタ、ルーマニアとの2連戦だったが、ベテランが大量に去り、自分が見たことの無い「若いドイツ」を見れるのかと期待していたら、GKはようやく代表レギュラーの座を手に入れたカーン(29歳)と新キャプテンビアホフ(30)はまぁ分かるとして、中盤に追放したエッフェンベルク(30)を復帰させてバスラー(29)と組ませ、ビアホフと2トップを組むのはキルステン(33)という。そこにバッベル(26)、イェレミース(24)、ノボトニー(24)、ネルリンガー(25)ら中堅世代が絡んでスタメンを組む構成だった。若手として前シーズンにカイザースラウテルンのリーグ優勝に貢献したバラック(21歳)やライヒ(20)、そしてトルコ系のドーガン(22)を初招集したが、この2試合では出場機会無し。親善試合ですら若手の起用を躊躇うような、この期に及んでも年功序列を覆せない旧態依然のチームマネジメントで、限界は明らかだった。
 戦術的にもリベロシステムを止めて4バックにしたのだが、ドイツはクラブチームも殆どがリベロ(スイーパー)を置いた3バックなのでこれに対応出来る選手が少なく、予想通りマルタに先制を許しながらどうにか逆転して2-1辛勝、ルーマニアには押されながら追い付いて1-1引分けとパッとしない成績に終わり、この遠征終了後、フォクツは辞任した。

 後任はヒッツフェルトバイエルン)、レーハーゲルカイザースラウテルン)といったブンデスの現役監督には勿論断られ、監督経験の無いブライトナー(74年W杯優勝メンバー)に口頭で承諾を得るも公表前にマスコミを前にして独自の(過激な)改革案を喋った為にご破算、最終的に2年半前に監督を引退していたリベックに決まり、アシスタントに元代表のシュティーリケ(後に韓国代表監督も務める)が就いた。正直95-96シーズンにレバークーゼンを率いていたことも覚えてないくらい初耳の人物だったが、就任緒戦のEURO予選トルコ戦で相手に対ドイツ戦初勝利を献上するなどパッとしない試合が続き、11月の親善試合オランダ戦ではマテウスやメラーを復帰させるも若いオランダにホームで圧倒され、相手がチャンスを逃しまくったのにも助けられて1-1引分け。この試合では24歳のFWツィックラーが代表デビューしたが、オランダはそれより若いクライファートセードルフらが既に主力で、険しい道が待っているだろうなとは思ったが、その後を考えればこの試合はまだマシだった。
 そこからは怒濤の不名誉が続く。翌年2月の北米遠征ではアメリカに0-3で完敗、夏のコンフェデは1クラブ3人までという制限付きで主力は数名という構成ではあったがブラジルに0-4で大敗しアメリカにも再度敗れてGL敗退、EURO予選だけは手堅く勝点を積んでいったが、最終戦のホームトルコ戦では、現地のトルコ移民にミュンヘンオリンピア・シュタディオンをジャックされ、圧倒的「アウェイ」の中でどうにか0-0で予選突破という有様だった。

 この当時のメンバーを見ると旧東独出身者が多い。統一当初はザマー、キルステンなど東ドイツ代表の主力が中心だったが、この頃になると統一当時はユース世代か若手だった世代が増えてくる。イェレミース、ヤンカー、ツィックラー、リンケ、レーマー、B・シュナイダー、ハインリヒ、バラックなど。前編で当時の育成の失敗について書いたがあれは旧西独の話で、旧東独のシステムで育った最後の世代がその穴を埋める形になっていたのだろう。穴を埋めるというか、それでも↑の通りの結果なので、いかに危機的な状況だったかが分かる。
 EURO本大会に向けてまだ騒動は続き、2000年に入るとイェレミースが采配を批判して親善試合を選外となり、アシスタントのシュティーリケがリベックと対立して辞任、そして本大会メンバーには主力のノイビル(27歳)が外れクラブで好調という理由で何と34歳のへスラーが復帰した。
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 そして本大会だが、1分2敗でGL敗退。ルーマニア△1-1、イングランド●0-1も大概だったが、最後のポルトガル戦は相手が既に突破を決めていた為に控え中心で、フィーゴルイ・コスタもベンチだったにもかかわらずS・コンセイソン(現FCポルト監督)にハットトリックされて0-3という。
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 後で知ったが大会中ハマン、ツィーゲバッベルが中心となってクーデタを起こしてリベックを追放し、マテウスを監督に据える計画すらあったらしい(マテウスの拒否で未遂に終わった)。他国はアンリ、トレゼゲオーウェンなど次代を担う若いタレントが躍動する中で世代交代出来ないまま惨敗。数少ない期待の若手として23歳のバラックと20歳のダイスラーだったがどちらも準レギュラークラスに止まりチームを救うまでに至らず。落ちるところまで落ちたというのが正直なところだった。
 話は飛ぶが、2018年ロシアW杯後に当時のレーヴ監督がミュラーフンメルス、ボアテンクのベテラン(といっても当時まだ29~30歳)を今後招集しないと宣言したが、これはこの90年代の世代交代の失敗とこのEUROでの惨敗がトラウマになっていたのではと推測している。ベテランを強制排除することで世代交代を進めようと。ドイツは過去に学ぶというと聞こえは良いが、かなり反動的な形でそれを実行する極端な面があるし。

  • 日韓W杯(準優勝)

 EUROの後、リベックは当然辞任し後任探しは難航したが、最終的に当時レバークーゼンブンデスの優勝を争うまでに導いたダウムに決まり、クラブとの契約が残る1年間は暫定的に同クラブのSDを務めるフェラーが率い、アシスタントにドルトムントを率いた経験も有る若いスキッベ(現広島監督)を付けた。この「監督はカリスマ性のある元代表スター選手+アシスタントはそれを戦術面で補佐」という組み合わせはベッケンバウアー以来のドイツの伝統であり、代表が危機に陥った時は大体この人選となる。就任緒戦でスペインを4-1で破るなど結果も出して(8月の親善試合で相手のコンディションが整ってなかった面はあるが)、W杯予選でも順調に勝利と、完璧な形で引き継ぐと思われたが、ダウムがコカイン陽性反応で国外逃亡というまさかの展開でフェラーがそのまま留任した。
 この頃になると徐々にネットや携帯も普及して雑誌以外にもサッカーサイトや現地の公式ページにアクセス可能となって、入手出来る情報は増えていった。試合毎に招集メンバーを把握できるようになったのもこの頃だな。それまではサカマガ、サカダイ、ワールドサッカー系雑誌でも招集メンバーを全て掲載してくれず(他国は載ることが多かった)、招集されるも出場無しに終わった若手など、自分が気になる情報を知ることが出来なかった。
 そんな中で2001年9月にW杯予選でホームでイングランドと対戦、勝てば予選突破という試合だったが結果はご覧の通り。
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 ドイツが5失点した衝撃の試合だったが、後に試合を通しで視ると、あまりスピードの無い3バックを高く上げ、その裏をオーウェンに好き放題突かれた形で、実力というより戦術的な敗北であった。ドイツは最終的に予選POに回ることになり、予選敗退もチラついたが(この予選はオランダが敗退、ブラジルも大苦戦しており、当時の感覚としては何が起こってもおかしくなかった)、ウクライナを相手にアウェイで1-1、ホームでは最初の15分で3-0と圧倒し、4-1勝利で予選突破を決めた。
 
 この当時、前線はビアホフが衰え、ヤンカーはポストは上手いがシュートは下手、ツィックラーは速いだけで代表レギュラーには物足りず、ノイビルはあくまでサイドを切り裂くチャンスメーカーという具合で、予選途中にデビューしたクローゼもまだ若くレギュラーでは無かった。そんな中で得点力を補ったのがバラックで、レバークーゼンで2列目から飛び込むゴールゲッターとして覚醒した後、代表でも得点力を発揮。これが無ければ予選突破も怪しかったし、代表はトップメラー(当時のレバークーゼン監督でバラックの攻撃性能を開花)に足を向けて寝れない。

 そして本大会はその結果からは想像出来ないことだが、直前から離脱者が連続する大会でもあった。ショルが負傷で早々に大会を断念すると、直前にはダイスラー、ハインリヒ、ベアンス、ノボトニーが負傷やコンディション不良で離脱。守備と攻撃の核を同時に失う形になった。そんな中で中盤のラメロウを3バックの中央に移し、ヤンカー、クローゼの2トップにバラックがその後ろから攻撃に絡み、B・シュナイダーが右サイドからチャンスメイクする布陣にすると、初戦のサウジ戦で8-0圧勝。
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試合終了後に(ドイツが好きなのは知られていたので)友人達から祝福のメールが届いたのは今でも覚えている(笑)その後はアイルランドに終了間際に追い付かれたり、大会途中で左MFベーメが負傷離脱、準決勝韓国戦ではバラックが累積警告で次戦出場停止が決まるなど順風ではなかったが決勝まで辿り着き、最後は敗れたものの負傷者の多さを考えれば十分過ぎる結果だった。EURO96然り、こういう時の方がドイツは良い結果を出すのかもしれない。クローゼが大会5ゴールと活躍してDFにも21歳のメッツェルダーという新星が台頭したが、個人的に印象に残っているのはMFフリンクスとシュナイダーの中堅2人。中盤で堅実に相手をブロックして攻撃にも顔を出すフリンクスと、まるでブラジル人の様なテクニックで右サイドからチャンスを作り出すシュナイダーは決勝進出の陰の立て役者。

 日本開催だったのもあってこの大会のドイツは色々と思い出深いチーム。決勝は横浜だったが、宿泊していたのは横浜駅前のベイシェラトンだったらしい。当時のユニはホーム、アウェイ両方買ったけど、中でもアウェイ=緑が当たり前だった中でのグレーがベースのユニは格好良かった。

2002年ドイツ代表・アウェイユニフォーム

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