出場・招集記録から当時を回顧する(ジーコ時代)

さて前回の記事から約半月が経ったが状況に変わりは無い。緊急事態宣言も5月末まで延長という話だし、今月もまた観戦の無い週末を過ごす事になる。ということで今回はジーコ時代を振り返ってみたい。
基本情報

・期間:2002年10月~2006年6月
・勝敗:72試合37勝16分19敗
    (山本昌邦監督代行による1試合を含む)
・招集:67名

トルシエの時は年別に書いたが、今回は雑感を箇条書きに。
・招集人数はトルシエ時代(104名)のおよそ2/3の67名。ただジーコ時代はトルシエ時代に当たり前だった候補合宿が無かった事情もある。これにより「候補合宿だけ呼ばれたメンバー」がおらず、故に人数も少なくなっている面はある。

・招集されベンチ入りしながら出場機会の無かったメンバーは
 名波浩小村徳男上野良治下田崇明神智和平山智規市川大祐手島和希廣山望永田充
 他にアジアカップの予備登録メンバーとして羽生直剛が登録されていた。(試合出場無し)
 この内、平山、手島がキャリアを通じて国際Aマッチ出場無し。 

・何より覚えているのは緒戦(2002/10/16ジャマイカ戦@国立)のメンバー。日韓W杯が終わり、次はどんな新しいメンバーが入るのかという期待があった中で(実際メディアでは新井場の名が挙がっていた記憶)、蓋を開けるとW杯はベテラン枠で入った秋田が残り、名良橋が復帰、そして負傷辞退した宮本の代わりにこれまた久々復帰の小村ってねぇ。メディアでは中田ヒデ、中村、小野、稲本の“黄金の中盤”がクローズアップされていたが、個人的にはこのベテラン重視路線に軽く白けたのは覚えている。

・言ってみればトルシエからの易姓革命とでも言うか、チームコンセプトが180度転換された故に、中心メンバーはそれほど変わらずともそれをサポートする脇役達が大きく変わった。特に中盤はトルシエ時代に活躍した戸田、明神といった職人的選手は招集すらされないか呼ばれても出場機会が無く、よりテクニカルな選手を重用。特に印象深いのは本山がやたら起用されていたことで、2003年9月のセネガル戦でジーコ体制初招集されると、ドイツW杯直前のキリンカップ(2006年5月)まで継続的に呼ばれて、途中出場がメインながら出場試合も多かった。当時TVで視ていてあまり攻撃で貢献しているようには見えないのに何故ここまで起用されるのか不思議だった。

ジーコはチーム内の結束と序列を重んじる監督だった。クラブでよほど試合に出てないとか不調なら別だが、基本的には代表チーム内で明確な序列があり、Jで活躍してもなかなか呼ばれず。闘莉王は04年時点で既に国内有数のCBだったが、CBは宮本、中澤、坪井、田中誠、茂庭、他に茶野といった序列があり、結局招集すらされなかった。おそらく04年アジアカップで優勝したメンバーに信頼を置いていて、同年のアテネ五輪メンバーの優先順位は低かったのだろう。加地などはクラブで特別指定だった徳永にポジションを奪われた時期もあったのだが、ジーコの信頼は揺らがなかったし徳永が呼ばれる事も無かった。結局ドイツW杯にエントリーしたアテネ世代は手薄だったSBの駒野と田中誠の負傷で急遽呼ばれた茂庭のみで、阿部、今野、松井、大久保といった面々は呼ばれなかった。松井は既にフランスで活躍していたし、シドニー世代の中盤には無い特長もあったので呼ばれるかなと思っていたが。

・この結束&序列重視というのはブラジル人監督、特にドゥンガやフェリペ・スコラーリなど代表監督によく見られる傾向。タレントが常に現れて“世代交代”という概念をあまり意識しなくてよい土壌、強烈な個性を持つ(≓我が強い)メンバーが多い中でチームを1つにまとめる必要性があるからと思うが、結果的にはトルシエ時代に築いた若きタレント集団という資産を食い潰した感も。

・戦術的には“人”が全ての基本というか、特定の布陣に選手を当てはめるのではなく、出場するメンバーの連携を深めることでチーム力を上げていくタイプ。故にターンオーバーする時もボランチやCBの片方とかではなくDFラインや中盤まるごと変えることが多かった。この手のタイプはやはり中村俊輔との相性は良く、後年マリノスでの樋口時代同様に輝く期間。それだけにドイツW杯での(不)出来が日本の結果を決めてしまった面もあるが。

ジーコ時代で忘れられない選手が久保竜彦トルシエ時代は緒戦エジプト戦からW杯直前まで断続的に呼ばれつつも結局Aマッチ14試合ノーゴールに終わった中で、ジーコ時代は18試合11ゴール。中でも2003年末の東アジア選手権から翌年6月W杯予選インド戦までの約半年間が一番輝いた期間だった。丁度マリノスがJ連覇した頃でもあったな。チェコ戦の弾丸シュートやアイスランド戦のテクニカルなゴールなど、この短い期間にこの選手が持つポテンシャルを十分に知らしめたのだが、それだけに負傷で04年アジアカップ、05年コンフェデ、そしてW杯を逃したことが残念。

・そして最後のドイツW杯だが、結果はともかく緒戦豪州戦での茂庭、3戦目ブラジル戦での高原と3試合中2試合で途中出場しながら負傷で途中交代したのはある意味この大会の日本を象徴しているなと。3戦目で交代枠を1つ余計に使ってしまった故に、フィールドプレーヤーで唯一遠藤だけ出場機会が無かった。その遠藤がこの後黄金世代で最後まで代表に残って代表試合出場記録を更新するんだから分からないものだな。

 年齢的にはこの大会はシドニー世代の集大成となるはずだったがそれは適わず、W杯後はジェフで実績を残しW杯など国際経験も豊富なオシムに再建が委ねられることになる。