出場・招集記録から当時を回顧する(トルシエ時代)

 前回の更新から1ヶ月近く経った。4月にはJも再開されるだろうと思っていたのだが、現時点で5月の再開も怪しい状況。12月~2月のシーズンオフ期間を除いてこれほど観戦間隔が空くのは本格的に観に行き始めた2001~2年頃以来初めて。いやオフ期間入れてもそろそろ“無観戦最長記録”を更新してしまうかな。
 このような状況で、このblogを始めて以来守ってきた「最低月1は更新」ペースを守る為に何か書こうと思うのだが、前回の様な旅行記は今は出来ない中で、サッカーについて記録を振り返り、思い付いたネタを書いてみたい。

 ここ数年代表戦の記録で興味があるのはそれぞれの試合の招集メンバー情報。試合に出れるのは公式戦で最大14人、親善試合でも17人なのでベンチ入りするものの出場機会の無い選手も出てくる訳だが、そうした記録を見ると意外な選手が呼ばれていたり、ついにAマッチ出場の無いまま引退する選手もいたりなかなか興味深い。一定期間通してみると監督の信頼厚い選手、そうでない選手が見えてきたりもする。幸いなことに協会のHPに招集メンバー情報が載っているのだが、古い試合になる程背番号(ここも知りたいポイント)は載っておらず、そこはネットで当時のニュースだったり記録を載せてくれている個人ページなりで補足するしかない。今回(次はあるかは分からないが笑)はトルシエ時代、つまりフランスW杯後から日韓W杯まで。

■記録

・期間:1998年10月~2002年6月
・勝敗:54試合24勝18分12敗
    (選抜、クラブチーム相手の4試合を含む)
・招集:104名
    (候補メンバー含む)

■年別概観
・就任~1999年
 就任から1999年まではAマッチ8試合のみ。これは当時トルシエU20やシドニー五輪代表監督も兼任していた為、そちらに注力していた面が大きい。次回W杯が自国開催であるが故にそうした日程も可能になったと思うが、試合数の少なさによる収益面での影響も、当時は五輪代表が人気、実力共にA代表を越える勢いだったから(特に予選で中田ヒデが加わってからは)、五輪最終予選などは国立は満員だったし、ある程度カバー出来ていたと思われる。(そう考えると今更だがW杯予選を戦う中で兼任させている現在の判断はどうなのかという気もするが。)
 招集メンバーはフランス大会メンバーを中心に五輪代表資格の無い25歳前後の若手を試すという感じだったが99年6月のコパアメリカを最後に長年代表の最終ラインを統率していた井原が代表から外れ、代わりに森岡がDFリーダーとなるなど、フランスW杯のレギュラー組は徐々に代表から外れていった。ただこの時点で井原32歳、秋田29歳、相馬28歳とそこまでベテランという訳でも無い。今で言うなら吉田麻也酒井宏樹、原口、柴崎らと同じくらい。やはりこれはシドニー世代のレベルの高さというか、この世代の前と後でレベルに大きな違いがあったというのが大きいかな。トルシエU20や五輪代表で若い選手を見てそのレベルの高さを実感していただろうし、またフラット3を始め自分の戦術をこなすにはより若く吸収力のある選手が望ましいという事情もあっただろう。

・2000年
 五輪世代が本格合流するのは2000年になってから。1月のカールスバーグ杯(香港)で松田、稲本など大量7名が代表デビュー。春まではホーム中国戦引き分け、アウェイ韓国戦敗戦などでトルシエ解任騒動があったと記憶しているが、6月のハッサン2世国王杯でフランスに△2-2、ジャマイカに快勝という結果で一気に風向きが変わり、シドニー五輪本大会を経て昇格した五輪世代に、川口、楢﨑、名波、服部、森島らフランス大会の生き残りが加わってアジアカップのチームが作られていった。この時のメンバーを見ると右サイドに望月を置いたり、テクニックをベースにした選手選考が覗える。アジアカップもGLでサウジに4-1、ウズベクに8-1など攻撃力を発揮して見事優勝。

・2001年
 この年は初っぱなにサン・ドニでフランスに0-5大敗するのだが、これがW杯に向けたターニングポイントになったかな。この試合以降波戸や戸田、鈴木隆行といったフィジカル、守備、走力に特長のある選手が呼ばれるようになり、より手堅いサッカーになった印象がある。それでチームを再構築してコンフェデ杯で準優勝、11月のイタリア戦も引き分けと前年と全く違うチームで結果を残したが、今にして思えばチームのピークはこの辺りだったんだろうな。ちなみにこのイタリア戦は川口、楢﨑が負傷欠場して曽ヶ端が代表初出場し、また私が初めて観に行った代表戦でもあるのだが、試合前の練習で招集メンバーにいないはずの南雄太がいて不思議に思った記憶がある。今回調べてみると、楢﨑が当日になって負傷した為に急遽呼ばれたらしい。
 フランス戦からよく立て直した年ではあったが、この路線変更で一番割を食ったのが中村俊輔ではあったな。アジアカップは名波とのコンビでチャンスメーカーとして機能したが、この年は怪我等で招集そのものが少なかったり、呼ばれてもベンチという試合が多い。

・2002年
 W杯イヤーは1~3月と毎月候補合宿を行って徐々にメンバーを絞り込む形。トルシエ時代を通してそうだが、当時は代表戦前に候補合宿をして試合向けにメンバーを絞り込む事が多い。今より日程に余裕があり、また海外組も殆どおらず、「W杯のために」という大義で多少の無理も押し通せた時代ならではという印象。1月の候補合宿には帰化した三都主の他、アテネ世代から阿部勇樹前田遼一も招集されていた。
 その後ウクライナ戦から始まってW杯迄に8試合戦う訳だが、ここでメンバー入りに向けて一気に巻くってきたのが三都主の他に市川と小笠原。途中出場も多いが市川は8試合全て、三都主、小笠原は7試合に出場しておりトルシエの期待が覗える。中村俊輔にとって特に左サイドアタッカー三都主プレーメーカーの小笠原が台頭したのは厳しい結果になった。最終的にその落選は大きな衝撃を以て報じられたが、起用を見る限りその予兆は覗えるのも事実。特に最後の欧州遠征(R・マドリー、ノルウェー戦)で負傷欠場したのも痛かったかな。
 最終メンバーには中山、秋田のベテランがチームのまとめ役として入ったが、秋田のメンバー入りによって押し出された形なのが中澤。ただ最後の欧州遠征にも選ばれていたとは言え、当時フラット3の右は松田が盤石で、この選手の出場機会は多くなかった。守備の大黒柱として覚醒するのはもう少し先の話で当時はまだ当落線上の若手という位置づけだったように思う。
 意外だったのは最後の遠征メンバー、つまり最終候補としてMF奥大介とFW山下芳輝も入っていたこと。奥はトルシエ緒戦のエジプト戦で代表デビューして以来継続的に呼ばれ続けており、実はトルシエの信頼も結構あったんだなと。また山下は記録を見るとこの年仙台に移籍して10ゴール決めており、実はW杯メンバーに近い位置にいたのを知った。また継続的に呼ばれていたという点では伊東輝悦もそうで、この年の初めに負傷してしまいメンバー入りはならなかったが、この選手もエジプト戦から継続して呼ばれていた選手の一人。

 そしてW杯本大会だが、結果は周知の通りなので今更言うまでも無いが、あの1ヶ月間は本当に夢のような日々というに相応しい時間だった。去年のラグビーW杯もそう形容されていたが、個人的には若かった分あのインパクトに勝るものは無い。ただTVで観るだけでは無く、大学での出会いによって様々な楽しみ方を教えて貰ったというのもあるし。今回記録を付ける為に当時のニュースなどにも触れて、あの時の記憶が蘇ってくるのも楽しい一時だった。

 これを調べる為に時間と手間が結構掛かるので次回あるかは未定(笑)