6/15にJの日程が発表され、いよいよ再開までのカウントダウンが始まった。最初は無観客、もといリモートマッチとなるが、夏休みはどこか未踏スタジアムで観戦出来るようになるのを願うばかり。
今回はオフトの次、ファルカン時代を。
■基本情報
・期間:1994年5月~10月
・勝敗:9試合3勝4分2敗
・招集:31名
・最初のキリンカップではドーハ組は9名、そして初代表は12名でその内8名がこの大会の2試合で代表デビューを果たした(今藤幸治、名塚善寛、岩本輝雄、前園真聖、佐藤慶明、小倉隆史、本並健治、遠藤昌浩)。出場機会の無かった初招集組には数年後に主力としてフランスW杯予選突破に貢献する秋田豊、山口素弘もいたが、2人ともファルカン時代を通じて出場機会は無し。特に秋田はファルカン時代の全試合で招集されながら出番が無く、その後の加茂時代と合わせて10試合以上もベンチ入りが続いた後ようやく代表デビューを果たしたのは初招集から1年半後の95年10月。
・色々な意味で20年後のアギーレに似た展開だった。むしろアギーレがファルカンのデジャブと言うべきか。類似点を挙げると
①アジアでベスト8に終わり就任から僅か半年で解任
※ファルカンはアジア大会、アギーレはアジアカップ、但しアギーレは結果とは別の問題での契約解除だったが。
②緒戦でサプライズの初招集組がいたものの、結局その時以降呼ばれず。
※ファルカンでの佐藤慶明、アギーレは皆川佑介、坂井達弥。恐らく協会の推薦ではなく自分やスタッフが実際に見て選考したのだろう。
③最終的には選考も妥当な線に落ち着き、そこそこ良いチームを作ったものの最後は惜敗
※ファルカンは終了間際の嘘くさいPKによる失点、アギーレはPK戦
・アジア大会は最後の怪しいPKで韓国に敗れた訳だが、当時の韓国はW杯を戦った選手をベースにほぼベストメンバーで臨んでおり(韓国ではアジア大会の金メダルは兵役免除に繋がる為、それを意識したメンバー構成となる。)、そういうチームに対して若返りを図っているチームが終了間際まで2-2で食らい付いていたのは一定の成果ではあった。まぁ日本の得点者はカズ、井原で、若返りと言いつつもシビアな試合で頼りになるのはやはり経験豊富な選手というのもまた然り、なのだが。
・招集人数は在任期間の短さやオフト時代の少なさ(1年半で33人)を考慮すれば多いようにも見えるが、後の代表監督の同じ試合数消化時点と比べると少ない。メンバーを固定していた印象の強いジーコも41人、ザックでも36人。そもそも当時は若返りを図りたくてもなかなかそれに値する選手がいない世代交代の狭間の時期という難しさはあったかと思う。オフト時代の課題だった選手層の薄さが急に改善された訳でも無く、プロリーグ2年目ではそこで揉まれた選手が泉のように湧いてくる訳でも無かった。それから2年ほど経つとアトランタ五輪世代(1973年生まれ~)やそのすぐ上の1970~72年生まれの世代が続々と台頭してくるのだが、94年時点でクラブで活躍して代表の常連になっていたこの世代は前園、岩本くらいで、後はまだプロ入りして日が浅かったり学生だった。
・参考までに後のフランスW杯メンバーで1970年代生まれの94年当時を振り返る。
世代が若い順に
小野 :中学2年(U16代表)
中田 :高校3年(U19代表)
楢﨑 :高校3年(U19代表)
川口 :高卒プロ1年目(松永の壁に阻まれサテライトが主戦場)
城 :高卒プロ1年目。ファルカン時代に招集歴あり。
伊東 :高卒プロ2年目
平野 :高卒プロ2年目
中西 :高卒プロ3年目
服部 :大学中退しプロ1年目
斉藤 :大学3年
岡野 :大学中退しプロ1年目
森島 :セレッソは当時まだJFL
名波 :大学4年
名良橋:JFLから昇格1年目。アジア大会メンバー。
相馬 :大卒プロ1年目
秋田 :大卒プロ2年目
書き出して思ったがこの年代で本大会登録22名中16名を占め、いかにこの時期の日本が若い世代ほどレベルが高かったかも分かるのだが。
実は当時中学生だった自分はこの時の代表に対して「こんなの俺の知ってる“日本代表”じゃない」とばかりにオフト時代に比べて醒めた目で見ていた。岩本がスターシステムに乗っかっていて10番まで付けていたのはどうなのかとも思っていた。今はW杯予選が終わり、監督も代われば次の大会に向けて若い世代が代表に入るのは当たり前で、殊にオフト時代は主力の年齢が20代半ば以上と実はやや高めだったので(最も若い森保、北澤が25歳)、世代交代は必至だったのは十分理解出来る。また新しい選手を腐すのも結局はそれまでの選手に対する思い入れの裏返しに過ぎない。そんな事もあり、近年ザッケローニ時代に主力が固定されて人気が出たことも、その後選手が入れ替わってあまり一般受けしない(という報道をされる)のも全て同意する訳では無いが少なくとも理解は出来るし、例えばアギーレ時代の武藤に対しては94年当時の自分が岩本に対して抱いたのと同じ感情を抱いた人がいたのだろうと思う。
今改めてこの時代を振り返ると、在任期間の短さやこれ以降代表に呼ばれなくなった選手の多さでどうも存在感が薄く、言わば忘れられたチームという印象がまずある一方で、当時の選手層では誰がやっても難しい時期であり、ファルカンがその責任を背負わされたという見方も出来る。世代交代は加茂監督の下で本格化するが、文字通りオフトと加茂の間を埋める“繋ぎ”の期間だった。世代交代の狭間という意味ではシドニー世代が本格合流前で、フランス大会の主力+20代半ばの世代を試していたトルシエ時代の99年にも似ているかな。
さて次回以降は加茂・岡田時代を振り返るが、とにかくこの時期は試合数が多くて追うのがキツい(苦笑)