さてJの中断期間中の場繋ぎにやってきたこのシリーズだが、具体的な再開日が決まると(別に気にする必要は無いのに)それまでに完結させなければという焦りが生まれてくる笑。これまでは約二週置きに書いていたが、これからは少しペースを上げ、J1再開日(7/4)までには終わらせたい。その前提として当時の記録を調べ、まとめる作業が必要となるが、ひとまず以下4回の更新を予定。
・オフト
・ファルカン
・加茂
・岡田(第一期)
今回は現在の日本サッカーのある意味原点とも言えるオフト時代に遡る。
・期間:1992年5月~1993年10月
・勝敗:27試合16勝7分4敗
・招集:33名(候補メンバー含む)
・こうして在任期間を見ると緒戦から最後のイラク戦まで1年半も無いというのに驚くが、その間にAマッチ27試合にクラブチームや選抜相手の11試合を合わせた38試合も戦っているのにもまた驚かされる。丁度この時期は日本リーグからJリーグへの移行期で、最後の日本リーグ(91-92シーズン)が92年3月に終わり、その後半年の間隔を空けてJリーグのプレイベントとして第1回ナビスコ杯(92年9月~11月)が開催され、またJリーグ開幕は翌年の5月であり、日程は比較的余裕があった。ただその空いた日程に代表のスケジュールを隙間無く詰めた為に代表選手達にとってはかなりの負荷が掛かったのだが。
・一方でこうして試合を重ねることはプロ化を控えたサッカーそのものや選手、そこから派生する所属チームをアピールするショーウインドウの役割を果たしていたのかなと思う。もちろんそれはダイナスティカップ、アジアカップの優勝やW杯予選の快進撃でそれまでと違う強い代表を印象付けられたことも大きかったと思うが。後述するがあたかもクラブチームの如く代表メンバー、出場メンバーが固定化されていたことも効果を増したのでは、と思う。
・Aマッチ以外で11試合と書いたが、その内9試合はアウェイ。当時は今のAマッチデーの様な日程は整備されておらず、また予選や国際大会以外で海外で日本と対戦する(出来る)代表チームも少なかった為、遠征=現地のクラブや選抜との対戦だった(故にオフト時代までの代表選手はAマッチ出場数がそれほどではなくても総試合数は100試合を越える選手が多い)。このオフト時代以降はアウェイでも代表チームとの対戦が主となり、それ以外は90年代こそJリーグ外国人選抜と対戦する場(JOMOカップ)があったが、今はチャリティとして代表とJ選抜が対戦するとか、W杯やアジアカップ前に現地のクラブと練習試合する程度になっていく。そういった意味でこの時代は代表チームのマッチメイクという点で転換期ではあった。ちなみに2試合あったホームのクラブチーム戦はユベントスを招いた92年8月の「サッカーフェスタ」というイベントで、現在も欧州の強豪が夏に東南アジアで代表チームと対戦したりするが、位置付けとしてはそれに近いものがあるかな。
・招集人数は候補を含め33名だが、その内Aマッチに出たのは22名、クラブチーム戦のみに出場は6名、全く出場機会が無かった選手も6名に上り、在任期間が短かったという事情はあるが、以降の時代と比べてもかなり少なく、メンバーはほぼ固定されていた。そもそも緒戦(92年5月)のアルゼンチン戦のスタメンからして
GK:松永
DF:勝矢、柱谷、井原、堀池、都並
MF:森保、北澤、ラモス
FW:カズ、中山
この全員が1年半後のW杯最終予選メンバーに選ばれている。Aマッチ27試合中10試合以上出たのは上記11名に吉田、福田、高木を加えた14名のみ。これに第2GKの前川を加えた15名がコアメンバーだった。
それ以外の選手は武田(6試合)、沢登、長谷川(5)、浅野(3)、三浦ヤス(2)、平川、黒崎(1)といった状況で、この中では沢登が1次予選のアウェイUAE戦で貴重な同点弾を決めたり、最終予選から加わった長谷川が最後レギュラーとなったのが目立つ程度。多くは代表に継続的に呼ばれてもなかなか出番は回って来ず、マリノス(日産)の山田隆裕、神野卓哉やフリューゲルス(全日空)の大嶽直人といった選手はアジアカップにもエントリーしていたものの結局オフト時代にAマッチに出場することは無かった。山田、大嶽は次のファルカン時代にデビューを果たすが、神野はキャリアを通じてAマッチ出場は無し。アジアカップに登録されながらAマッチ出場が無かった珍しい事例として以前オシム時代の太田吉彰を挙げたが、この選手もその一人。
・メンバーが固定されたのはまず短期間でW杯予選突破を目指すにあたってある程度メンバーを絞って、という方針だったのだろうし、またそもそも当時の日本は層が薄かったという事情もあっただろうと思う。この方針は最終予選を迎える頃にはJリーグ開幕による主力の疲労蓄積や負傷、チームとしてのコンディション低下、あまりに短期間で成果を出した為に最終予選の対戦国から警戒された等の副作用もあった。あのイラク戦は最後の時間の使い方に焦点を当てて言及されることが多いが、よりマクロな視点だとメンバーをやり繰りしつつどうにか勝点を積んでいったものの、上記の層の薄さやコンディション低下をカバーするにはあと一歩及ばなかったという見方も出来る。
・以降の代表でテーマとなる五輪世代との融合だが、そもそも五輪がU23化されたのは92年のバルセロナ五輪から。この大会で日本は最終予選で敗退するのだが、予選は92年1月開催だったので合流自体は特に問題は無かった。最終予選に登録されたメンバーからは前述の神野の他に下川健一、石川康、小村徳男、沢登正朗が招集(上記山田も五輪世代だったがエントリーされず)。この中で沢登のみAマッチデビューし、上述の通り予選で貴重なゴールを決めるなど、一定の出場機会を得た。因みに五輪最終予選メンバーには他に名波、相馬、名良橋といった後にフランスW杯予選突破に貢献し、本大会にもエントリーされた面々がいた。
・当時の試合を見るとカズはドリブルやシュートフェイントなど一つ一つの動き周りと違う。感覚としては久保建英が国内クラブや代表でプレーするのに近いかな。セットプレーのキッカーも務めていたが、シンプルにこのチームで一番上手かったからなのだろう。またラモスも今改めて見ると後の名波や遠藤、柴崎のような中盤のプレーメーカーであり、パスでチームのリズムを変えることの出来る選手だったんだなと。カズ以外にも高木、中山と点取り屋がいて、これに中盤の司令塔、強固なCB(井原、柱谷)、攻撃にも絡めるSB(都並、堀池)、また中盤の守備や運動量でチームに貢献出来る職人的選手(森保、北澤、吉田)がいるバランスの良さ。これに優秀な指導者が付けば確かにそう負けないチームになるなと。
・オフトは指導にあたって「トライアングル」、「アイコンタクト」といった用語を使ってそれが今で言うバズワード化し、その後外国人監督が就任する度に特定の用語とその人のサッカー観を関連付けてイメージされるようになった(トルシエの「フラット3」、「ウェーブ」、オシムの「走る」、「水を運ぶ人」、ハリルの「デュエル」等)。以前古いサッカー雑誌を読む機会があって丁度バルセロナ五輪予選のレポートだったのだが、そこで書かれていた練習メニューはシュート練習かサイドからのクロスを合わせるパターンばかりというもの、それを踏まえるとオフト就任までの日本はそうした言葉が新鮮に聞こえたほど選手以上に戦術面が課題だったのだろう。
と長々と書いてしまったが、丁度サッカーを観始めた時の代表だけに当時の記憶を懐かしく振り返ると共に、今改めて見返すと思うところが多々あって書き連ねてしまった。今でも当時のコアメンバーを背番号付で言えるくらいだし(笑)、個人的にも原点とも言える代表だけにこうなってしまう。