出場・招集記録から当時を回顧する(加茂時代)

 毎回その時点での主に首都圏(特に東京)のコロナウイルスの感染状況を備忘的に書いているが、感染者数はやや増加傾向にある。歌舞伎町など夜の街での感染者が多くを占めているという話もあるが、まだまだ予断を許さない。
 今回はファルカンの後任となった加茂監督時代について。その次の岡田監督(第一期)は予選中の内部昇格だったしまとめて記述することも考えたが、とにかくこの時期は試合数が多く、またW杯予選を始め“濃い”期間でフランスW杯本大会まで書くと分量が増えすぎてしまう。ということでこれまで通り監督別に。

■基本情報

・期間:1994年12月~97年10月
・勝敗:46試合23勝10分13敗(Aマッチのみ)
・招集:66名(候補メンバー含む)

 加茂監督時代は大きく3つの時期に分けることが出来る。これを主に期毎に見ていきたい。

①95年~96年夏
 ドーハ組のベテランからの世代交代と新戦力発掘
②96年後半
 アトランタ世代の合流とアジアカップに向けたチームの仕上げ
④97年
 アジアカップ準々決勝敗退を受けたチームの再構築とW杯予選

①期だが加茂監督はまず就任時にラモス、都並、松永、堀池、福田といったファルカン時代に未招集だったオフト時代の主力を呼び戻した。かといって単純に回帰した訳では無く、同時に相馬直樹岡野雅行柳本啓成といった22~3歳の若い選手も招集しており、上記の選手達に加え、柱谷などオフト時代を知るベテラン達は遅くとも95年一杯で代表から去って行く。都並氏のインタビュー*1によると監督とは95年2月のダイナスティカップ韓国戦が同氏の代表引退試合という暗黙の了解があり、また8月のブラジル戦でラモスを起用したのも同じということだが、最初のインターコンチネンタル杯自体が(アメリカW杯出場が適わなかった)ドーハ組のベテラン達への最後の花道的位置付けであり、そこである種の区切りを付けた上での世代交代という方針だったのかな。そう考えるとファルカンが留任していたらこういう事は起こり得なかっただろうし、解任の背景には結果以外のそんな事情(ドーハ組がこのまま代表からフェードアウトすることに対して反感を抱く協会関係者も実は多かった?)もあったかもしれない。まぁ憶測に過ぎないが。

・実は上記の都並氏のインタビューで94年12月に候補合宿したのを知り、そのメンバーを知りたくてメルカリで当時のサッカー雑誌を買ったという(笑)記録上A代表キャップは0だが実はベンチ入り経験はあるだとか、候補合宿には呼ばれていた、というのを知ることが今回の目的でもあるので。メンバーは30名で概ね95年前半の代表戦に招集されたメンバーだったが、意外なところではアトランタ世代の服部年宏がいた。実際に正メンバーとして招集されるのは五輪後の96年8月なのだが、この時点で加茂監督、あるいは協会の期待も大きかったんだなと。

・上で書いたように就任から96年夏の五輪までは主にアトランタ世代より少し上の世代、中堅を中心に新戦力を試す時期でもあった。相馬、岡野、柳本以外にも田坂和昭森島寛晃藤田俊哉名波浩中村忠本田泰人などが呼ばれ、また当時既に30歳のベテランだったがGK小島伸幸、DF神田勝夫らもJでの活躍が評価されて招集された。とにかく戦力になり得る選手を呼んで試してみようという時期だったと言えるし、丁度1971~72年生まれの大卒組がプロ入りして一気に頭角を現す時期でもあった。

・出場記録からは離れるが、この時期で外すことの出来ないのがネルシーニョ次期監督内定→会長の鶴の一声で加茂続投の話。95年末に技術委員会が加茂監督の限界を指摘してネルシーニョ招聘を決めたのだが、長沼会長の判断でそれが覆された。直近5戦ではブラジル、パラグアイに敗れコスタリカ、サウジ(2戦)に勝利という時期だったが、W杯予選を突破するには何か(サッカーの内容?、指導力?)が足りないという判断だったのだろう。まぁ今思えば会長と監督が大学の先輩後輩関係だったのが大きかったのかと思うが、ネルシーニョが監督だったらどんなチームだっただろうか。間違いなく手堅いチームになっただろうし、もう少しヴェルディ勢が呼ばれていたかな。

・続いて②期となるが、アトランタ五輪が終わった96年8月以降は五輪世代が本格合流し、既にA代表に呼ばれていた前園、城以外にも前述の服部や路木龍次川口能活、また五輪には出場していないが同じ世代の楢崎正剛斉藤俊秀らが初招集された。若手からベテランまでバランスの取れたメンバー構成で8~10月の親善試合は3戦3勝。チームはここで一つの完成を迎える。だがアジアカップではプレスをロングボールで外される弱点を突かれて準々決勝でクウェートに完敗、ここから控えめに言って試行錯誤、言い方を変えれば迷走が始まったと思う。因みにだがクウェート戦で2点決められたアル・フーワイディという長身FWは未だに覚えているし、監督のマチャラは後にオマーンバーレーンを率いて何度も日本と対戦することになる。

・翌97年から③期となるが、W杯1次予選でマカオに10-0という試合もあったものの、予選開始直前の3月にはアウェイでタイに敗れるなど(現時点でA代表が東南アジア勢に喫した最後の敗戦)、アジアカップの敗戦を引き摺っていたというか戦術的な手詰まり感があった記憶。その流れを幾分か変えたのが新戦力の台頭なのだが、その中でも中田英寿の加入は巨大なインパクがあった。(アトランタ五輪にも飛び級出場したが)シドニー世代で代表入りした最初の選手だが、デビュー戦が国立の日韓戦でスタメン出場という状況で存在感を見せ、その後のキリンカップでもこれまでの選手とは違うのが当時高校生だった自分にも分かるほどのプレー。華麗なテクニックを見せる訳では無いのだが、相手に寄せられてもバランスを崩さずボールを前に運べるドリブルや、早くて強いパスなど、それまでの代表の試合のリズムを変えたというか、テンポを一気に早め、レベルを引き上げた感があった。デビュー戦から加茂監督最後の試合となった予選のカザフスタン戦までAマッチ11試合連続スタメンという事実だけで、いかに短期間で不可欠な戦力となったかが分かる。
 因みに中田の登場は前園との入れ替わりでもあった。アジアカップ後は海外移籍を目指したが適わず最終的にヴェルディ移籍した時期で*2、それが影響したのか代表に呼ばれてはいたものの出場機会を失っていった。そしてついに代表落ちした試合で選ばれたのが中田であり、一緒にCM出演までしたこの2人は実はA代表では一度も共にプレーしていないという。

・一方で5月から最終予選(9月開始)までに初招集されたのは他に平野孝伊東輝悦鈴木秀人望月重良といったアトランタ世代から西澤明訓下平隆宏渡辺毅森山泰行といった中堅、ベテランまで、また最終予選直前のJOMOカップでは三浦淳宏中西永輔西田吉洋も呼ばれ、中田と合わせて実に12名にもなる。Jも5年目を迎えてリーグで揉まれた選手が日本リーグを知る世代を押しのけて台頭する時期だったとも言えるが、最終予選を前にこれだけ新戦力を呼ぶのはどう見ても試行錯誤してるのが覗えて今見ても大丈夫かと言いたくなる(苦笑)

・そして最終予選を迎える訳だが、当初はアメリカ大会と同じ中立国での開催が予定されていたが開催地で揉めて結局僅か2ヶ月弱でのH&Aリーグ戦となった。まぁこの最終予選は1試合毎に語る要素が多すぎてとても書き切れないので今回は割愛するが、やっぱホームの韓国戦だよなぁ。この試合は加茂監督の采配が批判されたが(リードした後秋田を入れて3バックに変更し、結果韓国に防戦一方となり終盤に逆転を許した。なおこの試合は未だハイライトでも見たくない。山口の歴代最高レベルのゴールはあったのだが。)、ここまでの出場記録から判断するに元々選手交代で流れを変えるとか、相手の弱みを突くとかは得意では無い印象がある。アジアカップでもスタメンはほぼ固定で途中から攻撃で岡野、守備固めに本田というパターンばかり。当時、予選前のNHKのインタビューで「3バックの方がしっくりいっている」てな事を語っていたのを覚えているが、ブラジル戦は0-3、クロアチア戦で4点、ウズベキスタン戦も6点取ったが共に3失点とそんな上手くいってるようには見えなかった。韓国戦では4バックに戻して堅い展開ながら後半半ばについに先制して行けると思ったら最後にまた3バックにし結果は・・と。当時の日本人指導者としては最高レベルの人だったのは間違いないが、今思えば監督の国際経験(特に予選など厳しい試合)の無さが出てしまったというのが率直な感想。

 結局次のアウェイカザフスタン戦で終了間際に追い付かれて加茂監督は解任され、後任は岡田コーチが内部昇格することになる。