出場・招集記録から当時を回顧する(第一期岡田時代)

 いよいよ今週末からJ2、J3が再開、開幕予定だが、6/24時点で東京の新規感染者は1日30~40人、それ以外の首都圏3県は多くて10名未満でゼロの日もあるという状況が続いている。首都圏がこれなら予定通り再開は出来そうかな。
 今回は加茂監督を引き継いだ岡田監督(第一期)時代を振り返る。
■基本情報

・期間:1997年10月~1998年6月
・勝敗:15試合5勝4分6敗
・招集:37名

・就任初戦こそ従来の3バックを踏襲したが、次のUAE戦からは後ろを4枚にして、呼び戻した北澤をトップ下(の辺り)に入れる布陣。中盤は他に山口素弘中田英寿名波浩とパスや攻撃に特長のある選手ばかりで潰し役がいないにも関わらず、この選手が入ることで中盤に絶妙なバランスをもたらした。運動量豊富でピッチを幅広くカバー出来る選手がいるとチームが活性化する好例だと思う。まさにダイナモ。まぁ北澤の場合シュート精度はイマイチで攻撃に直接絡む事は少なかったのだが、それを補って余りある貢献だった。予選突破後はより攻撃に絡める選手ということで当時鹿島で活躍していた増田忠俊が初招集されてこの位置で試されたがあまり機能していなかった。これもこのポジションに求められていたのが高い位置を起点に幅広いエリアをカバーすることだったが故ではないかと。そんな芸当が出来るのは北澤くらいで、あの予選終盤の4人でしか為し得ないバランスだった。

・そのUAE戦は追い付かれての引分けで試合後のカズ生卵事件とかもあったが、この試合の呂比須のボレーは個人的に代表の歴代ベスト10に入るゴラッソ。ホーム韓国戦の山口のループもそうだが、極限の緊張感の中で出るこうしたスーパーゴールは何よりの価値がある。まぁ結果も伴っていれば尚良かったが・・。

・で、最終戦カザフスタン戦には5-1で圧勝してジョホールバルへとなるのだが、この試合で印象深いのが代表復帰した中山、高木の両ベテランが途中出場からしっかり点を取ったのに対してスタメンの城は山のようなチャンスを全て外してノーゴールだったこと。思えば最終予選初戦のウズベキスタンでも幾度のチャンスを外し続けてやっと1点だったし、その後本大会での外し振りも合わせて考えると、まだ22歳のFWが多くを背負い過ぎていた感もある。ただこの当時はカズ、中山、高木らの世代に続く有力FWと言えばこの選手くらいだったのも事実。帰化したばかりの呂比須は既に20代後半だったし、岡野はあくまでスピードが武器のジョーカー的存在。負傷さえ無ければ小倉隆史(1973年生まれ)がそこにいたのだろうけど。

・この最終予選は試合に登録されるのは18名だが招集メンバーはそれより多く毎試合20名以上呼ばれており、ベンチ外となったメンバーも何人かいるのだが、その中で下平隆宏はベンチ入りは最後のカザフスタン戦のみながら最終予選を通じて招集されていたことを今回知った。ある意味でチームを影で支えた一人とも言えるかな。そして実はA代表キャップは無いという事実。

・招集人数は37名だが、岡田“監督”として初招集したのは増田忠俊柳沢敦中村俊輔岡中勇人市川大祐小野伸二の6名のみ。この内4名がシドニー世代、2名がまだ10代というのも、若い世代ほど上手いという当時を象徴している。この中で本大会メンバーに選出されたのは小野1人で、市川は最終候補25名まで残ったものの落選、柳沢は98年初戦の豪州戦、4月の韓国戦と2試合でスタメン出場するなど、監督からかなり期待されていた節があるが、そこで結果を残せなかった。中村俊輔は最初の豪州合宿で負傷して試合に出れず、4月の韓国戦もベンチ入りのみ。98年時点でこの世代は中田しか代表でのステータスを確立しておらず、それ以外はまだ才能の一端をJで披露して候補に選ばれる段階に過ぎなかった。本格的に台頭するのはもう2年ほど先で3年後には完全に中核となったし、この98年~01年はオフト時代以来の高度成長期。

・本大会のメンバー選考と言えばカズの落選だが、今でこそ衝撃を持って伝えられるが、当時の感覚ではメンバー発表まではカズは完全に(中田に代表される新世代に対する)旧世代扱いだった。まぁ主に中田にベッタリだった某ライターの文章の影響が大きかったとは思うが。ただカズは最終予選の初戦以降代表でのゴールが無く、少なくとも代表の主役では無くなっていたのも事実だった。それがあのメンバー発表後に大騒動となった訳だが、当時高校生だった自分は勝手なものだと醒めた目で見ていた記憶がある。城もそんなに点を取っていた訳では無いしカズより明らかに上とまでは思わなかったが、それまでの起用や各FWの特長から考えて枠は城、中山、呂比須、岡野の4人で、5人だと多すぎる。ただあの大騒ぎの反省からそれ以降の日本は開催地に飛ぶ前に日本で最終メンバーを発表するようになったし、ベテランの重要性という観点でも4年後に中山、秋田がメンバー入りし、岡田さん自身も南アで川口を呼んだりと、しっかりと経験を活かしているとは思う。

・かつて戸田和幸氏の著書*1を読んだ時、同氏がフランスW杯の予備登録に入っていてパスポートを協会に預けていたという話が紹介されていた。現在分かっている範囲ではこの時期に戸田氏が招集された記録は無く、従って上記の招集人数にも入っていないのだが、30人、あるいは40人規模の予備登録枠が存在し、その中に同じく当時まだA代表未招集の選手が他にいたのかもしれない。今となってはそれを知る術は無いが。

・本大会メンバー22名を見てみると、静岡の高校を出た選手が多いことに気付く。実に10名。高校別の内訳は

清水商  :4名(名波、平野、川口、小野)
東海大一高:3名(森島、服部、伊東)
清水東  :2名(相馬、斉藤)
藤枝東  :1名(中山)

 特に1971~75年生まれに集中しており、1990年前後に高校生だったこの世代が静岡サッカーのピークだったんだなと。この中で所謂越境入学は広島出身の森島のみで大半が地元静岡出身。いかにこの県が日本の育成をリードしていたかが分かる。最終候補から落選した3名の内カズ、市川も静岡出身だし。これが80年代生まれになるとW杯メンバーになったのは長谷部、矢野、内田の3名のみ、90年代生まれは現時点で大島1人という状況。

・本大会は3敗で終わる訳だが、今見てもよく健闘した方だと思う。ロシアW杯で初出場したパナマは4位になるイングランドに1-6、3位のベルギーに0-3という結果だったが、日本も3位のクロアチア、ベスト8のアルゼンチンに最少失点で凌ぎ、チャンスも何度か作れた訳だし。ただし最後のジャマイカ戦は勝てた試合だった(3敗という結果から当時の日本にはW杯で勝つ力は無かったとする論もあるが、そういう結果論、言い換えれば形を変えた運命論に私は組しない。やりようではどんな試合にも勝つチャンスはあり、その可能性の多寡があるだけだ)。2戦目まで強豪相手に攻撃を凌いで少ないチャンスを・・という戦い方で3戦目に初めてほぼ同格の相手とやってどう対応すれば良いか戸惑ってる内に2失点してしまった。それでやっと吹っ切れて攻めまくった訳だが、まぁシュートが入らず。特に城がシュートを外しまくったのは今に続くカズ神話に少なからず影響を与えたと思う。あの時城が1点でも取っていればカズを外した批判をある程度は抑えることが出来ただろうし、今もそれほど大きく語られることも無かっただろうから。城が次に代表でゴールを決めるのは2000年のハッサン2世国王杯なのだが、その時の相手はジャマイカで、奇しくもカズも途中出場からゴールを決めているのは何かの縁だろうか。因みに2人にとってこのゴールが代表での最後のゴールとなっている。

 てな感じで試合毎に出場選手を調べるのはかなり労力を費やしたが、記録の1つ1つが当時を思い出す良い触媒になった(笑)ザック以降も追々公開したいが、そろそろJも再開するのでまた時間が空いた時にでも。まぁ再開してもしばらくスタジアムに行けなさそうなので意外と来月辺りに書いてしまうかもしれない。

*1:『解説者の流儀』 洋泉社 2018