出場・招集記録から当時を回顧する(ザッケローニ時代)前編

 昨年の今頃、Jが中断しブログの繋ぎのネタとしてw始めたこのシリーズだが、当時は丁度(順番は前後するが)オフトから第二期岡田時代までを振り返ってJが再開してそのまま休止していた。あれからまた1年が過ぎ、思えばブラジルW杯からも7年、ロシア大会からも早3年ということで残りの代表監督達も振り返ってみる。最初はザッケローニから。書き始めたら長くなったので2回に分割し、今日はその前編として10~12年を。

・期間:2010年10月~2014年6月
・勝敗:60試合33勝12分15敗(Aマッチ)
・招集:78名(予備登録メンバー合わせて108名)

■原監督代行
ザッケローニ時代を語る前にまず原さんが指揮を執った2010年9月の2試合について。確か就労ビザか何かの問題で新監督がまだベンチ入り出来なかった為と記憶しているが、メンバーは南アW杯組主体に数名の新戦力や中堅を加えた構成。中澤はザック時代は招集されなかったため最初のパラグアイ戦が最後の代表戦となった。続くグアテマラ戦は楢崎橋本英郎の代表ラストマッチ。この2連戦では細貝永田が代表デビュー。パラグアイ戦は観に行ったが、W杯ベスト16直後、そして海外移籍した長友内田香川らの移籍後最初の代表戦ということもあってスタジアムに高揚感や期待が充満していた記憶がある。試合そのものもパラグアイ戦は縦パスを受けた香川が冷静に決めて勝つという(守備重視の)W杯時とは違うスタイルを予感させた。

日本vsパラグアイ

■ザック時代
・任期前半、特に就任からアジアカップ優勝~11年8月日韓戦○3-0~11年10月W杯予選タジキスタン戦○8-0までの1年は歴代でも(少なくとも自分が見てきたオフト以降では)強さ、主力の年齢バランスを総合的に見て屈指の充実度であり最強と言っても過言では無い。この間無敗で、何より就任初戦でメッシ、テベスマスチェラーノカンビアッソらがスタメンで途中からディ・マリアイグアインも出場とほぼベストメンバー(いなかったのはアグエロくらい)のアルゼンチンに勝ったのは大きかった。アジアカップは実はイメージほど楽に勝ち抜いた訳では無く、初戦は終了間際に何とか追い付き、2戦目は退場者を出して追い付かれた後に勝ち越し、準々決勝の地元カタール戦は逆転された後に1人少なくなったにもかかわらず終了間際に再逆転とジーコ時代の2004年大会に匹敵するスリリングな展開で、松井、香川が負傷で途中離脱する厳しい状況でもあったが、このチームなら点を取れる、最後は追い付ける、勝てるだろうという期待感があった。

・11年10月から12年10月にかけてはW杯最終予選での好調、サン・ドニでのフランス戦勝利もあったが、3次予選での北朝鮮ウズベキスタン相手の2敗、12年10月ブラジル戦●0-4など少しづつピークアウトを予感させる期間でもあった。
当時のスタメンは

GK川島
DF内田、今野、吉田、長友
MF長谷部、遠藤、岡崎、本田、香川
FW前田

これにGK西川、権田、SB駒野、酒井高徳酒井宏樹、CB栗原、伊野波、ボランチ細貝、高橋秀人、トップ下中村憲剛、清武、FWハーフナーらがそれぞれ控える形でメンバーはほぼ固定されていた。特にこの時期はロンドン五輪があり、五輪前からU23世代が代表招集されて層の厚みを加えており、結果的には13年以降W酒井、清武の台頭によって駒野、中村憲剛といったベテランは代表を外れる形となるが、12年時点では共に代表に呼ばれていた。従って今挙げたメンバーは計22名と招集人数とほぼ同数となり、それ以外の選手がここに割って入るにはかなりハードルが高い状況でもあった。

・その間ザックも全く新しい選手を呼ばなかった訳では無く、海外組のいない親善試合、特に12年2月のアイスランド戦では近藤直也田中順也増田誓志が代表デビューし、その他山本海人林卓人谷口博之の中堅、磯村亮太(20歳)、柴崎岳(19)、久保裕也(18)ら若い選手も招集している。ただやはり上記の選手達の序列を越えるまでには至らず。思うにこの頃から今に至る海外組と国内組のバランスやレベル差といった問題が始まったと思う。主力は欧州で経験を積んで更に成長し、国内で少し活躍した程度では代表入りさえままならず、選ばれる頃には既に十分な実績=それなりの年齢に達している、という状況。まさに先月の代表の国内組が軒並み20代半ばから後半だった状況と符合する。まぁ代表のレベル向上という意味では良いのだが、後編で述べるがメンバーの固定化は停滞も招く訳で12年はその辺如何にバランスを取るかという新しい問題に直面した時期とも言える。

・12年は広島が初優勝し佐藤寿人が22ゴールで得点王となった年だったが、招集は12年10月のフランス、ブラジル戦のみ、それも前田の負傷による追加招集によるもの(出場は無し)。ザック時代を通じて招集はこの時だけなのだが、プレースタイルが合わなかった故にこの時期の代表と縁が無かった選手は結構いる。闘莉王もまさにそうで、当時はCBの層が薄かったので呼んでも良いのにと思っていたが、後に様々な媒体で闘莉王の深く守るプレースタイルがラインを上げる代表のサッカーと一致しなかったのを知り納得。

・実は宇佐美はザック時代にも代表に呼ばれており、上記の柴崎、久保同様にJの若手もしっかりチェックしていたのをうかがわせる。初招集は11年6月のキリンカップ(ペルー、チェコ)で当時はバイエルンに移籍する直前でまだ19歳。そして12年11月のオマーン戦(W杯予選)にも呼ばれているが、この3試合で出場機会はなく、代表デビューするのは初招集から実に4年経った15年3月(ハリルホジッチの就任初戦)となる。

・Aマッチでは無いが、この時期で忘れてはならない試合が11年3月の東日本大震災チャリティーマッチのJリーグ選抜戦。元々予定されていたモンテネグロ(国立)、ニュージーランド(エコパ)戦が中止となった代替として長居で開催されたもの。あの試合はカズのゴールの印象が強いが、代表もアジアカップ組を主体にベストメンバーだった。この試合では招集された3人のGK(川島、西川、東口)がそれぞれ30分づつプレーするというAマッチではなかなかお目にかかれない展開で、第3GK東口もラスト30分に出場。東口はこの後キリンカップや日韓戦に招集されるも出場機会は無く、Aマッチデビューとなるのは4年を経た15年8月の東アジアカップ

 こんな感じで後編へ。