交換と専門化、そして多様性

繁栄―明日を切り拓くための人類10万年史/マット・リドレー
【要旨】

 人類がこれまで時に永い時間をかけ、時に急速に進歩を遂げてきた源は「交換と専門化」にある。知識や技術の相互交換は絶え間ない技術の進歩の土台となり、専門化によって人は一人が生み出し得るものより遥かに膨大な生産性を持つに至った。
 その一方で人が将来を展望する時は常に悲観が楽観を凌駕し、同時に過去を懐かしみ、賛美する傾向にある。それは前世紀、前々世紀以前から変わらず、今現在も環境破壊、地球温暖化等悲観論を助長する多くの課題がある。だが、先に挙げた二つの特長―――交換と専門化―――によって人は過去如何に多くの課題を乗り越え、“懐かしき素晴らしき過去”に比べて今がいかに恵まれているかについてなかなか気付く事はない。この特長を持つ限りこれからも人類は課題を克服し、より良い世界を作るであろう。


 てな内容だが、おそらく3/11前後で本作から受ける印象はまるで違ったんだろうなぁというのが正直な所。作中では化石燃料の節約や人口増を支えるエネルギー源として原子力技術のさらなる発展と利用が著者の言う楽観論の根拠の一つとしてしばしば言及されてるんだが、さすがに今それをすんなり受け入れる事は出来ない。ただそれは別に現在進行形の原発事故を引き合いに出して著者の論理を否定する、というものではない。
 人類史10万年をマクロで捉えれば、確かに全体として(傾斜の角度に差は有れど)成長グラフは右肩上がりではあったとは思う。ただ、ミクロで見れば、途中「交換」の恩恵に与れる程の人口を持たずに衰退した地域や、ギリシア・ローマの優れた技術が失われた長い中世の暗黒時代の様に停滞した時期もあった。おそらく今まさに起こっているこの事象も、著者の考えに従えば、スリーマイルやチェルノブイリと一括りにして“人類が原子力技術を克服する過程で起きた一連の試練”の様に捉えられるかもしれない。
 理性に従うならば、その通りだと思う。だがそれは自分という主体から切り離して客観的に見た場合であって、2011年4月21日現在日本にいる自分はどうしても100%受容する事は出来ない。そんな今最も感情にシンクロするのは次の言葉。


“あたかも1万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ”
―――自省録/マルクス・アウレリウス・アントニヌス


 相反する2つの思いが同居し、過去・現在・未来について思いを巡らす事――種の存続には遺伝子の多様性が重要だが、個人の内面の、あるいは各個人の思考の多様性、これもまた人が持つ特長なのかもしれない。