出場・招集記録から当時を回顧する(第一期岡田時代)

 いよいよ今週末からJ2、J3が再開、開幕予定だが、6/24時点で東京の新規感染者は1日30~40人、それ以外の首都圏3県は多くて10名未満でゼロの日もあるという状況が続いている。首都圏がこれなら予定通り再開は出来そうかな。
 今回は加茂監督を引き継いだ岡田監督(第一期)時代を振り返る。
■基本情報

・期間:1997年10月~1998年6月
・勝敗:15試合5勝4分6敗
・招集:37名

・就任初戦こそ従来の3バックを踏襲したが、次のUAE戦からは後ろを4枚にして、呼び戻した北澤をトップ下(の辺り)に入れる布陣。中盤は他に山口素弘中田英寿名波浩とパスや攻撃に特長のある選手ばかりで潰し役がいないにも関わらず、この選手が入ることで中盤に絶妙なバランスをもたらした。運動量豊富でピッチを幅広くカバー出来る選手がいるとチームが活性化する好例だと思う。まさにダイナモ。まぁ北澤の場合シュート精度はイマイチで攻撃に直接絡む事は少なかったのだが、それを補って余りある貢献だった。予選突破後はより攻撃に絡める選手ということで当時鹿島で活躍していた増田忠俊が初招集されてこの位置で試されたがあまり機能していなかった。これもこのポジションに求められていたのが高い位置を起点に幅広いエリアをカバーすることだったが故ではないかと。そんな芸当が出来るのは北澤くらいで、あの予選終盤の4人でしか為し得ないバランスだった。

・そのUAE戦は追い付かれての引分けで試合後のカズ生卵事件とかもあったが、この試合の呂比須のボレーは個人的に代表の歴代ベスト10に入るゴラッソ。ホーム韓国戦の山口のループもそうだが、極限の緊張感の中で出るこうしたスーパーゴールは何よりの価値がある。まぁ結果も伴っていれば尚良かったが・・。

・で、最終戦カザフスタン戦には5-1で圧勝してジョホールバルへとなるのだが、この試合で印象深いのが代表復帰した中山、高木の両ベテランが途中出場からしっかり点を取ったのに対してスタメンの城は山のようなチャンスを全て外してノーゴールだったこと。思えば最終予選初戦のウズベキスタンでも幾度のチャンスを外し続けてやっと1点だったし、その後本大会での外し振りも合わせて考えると、まだ22歳のFWが多くを背負い過ぎていた感もある。ただこの当時はカズ、中山、高木らの世代に続く有力FWと言えばこの選手くらいだったのも事実。帰化したばかりの呂比須は既に20代後半だったし、岡野はあくまでスピードが武器のジョーカー的存在。負傷さえ無ければ小倉隆史(1973年生まれ)がそこにいたのだろうけど。

・この最終予選は試合に登録されるのは18名だが招集メンバーはそれより多く毎試合20名以上呼ばれており、ベンチ外となったメンバーも何人かいるのだが、その中で下平隆宏はベンチ入りは最後のカザフスタン戦のみながら最終予選を通じて招集されていたことを今回知った。ある意味でチームを影で支えた一人とも言えるかな。そして実はA代表キャップは無いという事実。

・招集人数は37名だが、岡田“監督”として初招集したのは増田忠俊柳沢敦中村俊輔岡中勇人市川大祐小野伸二の6名のみ。この内4名がシドニー世代、2名がまだ10代というのも、若い世代ほど上手いという当時を象徴している。この中で本大会メンバーに選出されたのは小野1人で、市川は最終候補25名まで残ったものの落選、柳沢は98年初戦の豪州戦、4月の韓国戦と2試合でスタメン出場するなど、監督からかなり期待されていた節があるが、そこで結果を残せなかった。中村俊輔は最初の豪州合宿で負傷して試合に出れず、4月の韓国戦もベンチ入りのみ。98年時点でこの世代は中田しか代表でのステータスを確立しておらず、それ以外はまだ才能の一端をJで披露して候補に選ばれる段階に過ぎなかった。本格的に台頭するのはもう2年ほど先で3年後には完全に中核となったし、この98年~01年はオフト時代以来の高度成長期。

・本大会のメンバー選考と言えばカズの落選だが、今でこそ衝撃を持って伝えられるが、当時の感覚ではメンバー発表まではカズは完全に(中田に代表される新世代に対する)旧世代扱いだった。まぁ主に中田にベッタリだった某ライターの文章の影響が大きかったとは思うが。ただカズは最終予選の初戦以降代表でのゴールが無く、少なくとも代表の主役では無くなっていたのも事実だった。それがあのメンバー発表後に大騒動となった訳だが、当時高校生だった自分は勝手なものだと醒めた目で見ていた記憶がある。城もそんなに点を取っていた訳では無いしカズより明らかに上とまでは思わなかったが、それまでの起用や各FWの特長から考えて枠は城、中山、呂比須、岡野の4人で、5人だと多すぎる。ただあの大騒ぎの反省からそれ以降の日本は開催地に飛ぶ前に日本で最終メンバーを発表するようになったし、ベテランの重要性という観点でも4年後に中山、秋田がメンバー入りし、岡田さん自身も南アで川口を呼んだりと、しっかりと経験を活かしているとは思う。

・かつて戸田和幸氏の著書*1を読んだ時、同氏がフランスW杯の予備登録に入っていてパスポートを協会に預けていたという話が紹介されていた。現在分かっている範囲ではこの時期に戸田氏が招集された記録は無く、従って上記の招集人数にも入っていないのだが、30人、あるいは40人規模の予備登録枠が存在し、その中に同じく当時まだA代表未招集の選手が他にいたのかもしれない。今となってはそれを知る術は無いが。

・本大会メンバー22名を見てみると、静岡の高校を出た選手が多いことに気付く。実に10名。高校別の内訳は

清水商  :4名(名波、平野、川口、小野)
東海大一高:3名(森島、服部、伊東)
清水東  :2名(相馬、斉藤)
藤枝東  :1名(中山)

 特に1971~75年生まれに集中しており、1990年前後に高校生だったこの世代が静岡サッカーのピークだったんだなと。この中で所謂越境入学は広島出身の森島のみで大半が地元静岡出身。いかにこの県が日本の育成をリードしていたかが分かる。最終候補から落選した3名の内カズ、市川も静岡出身だし。これが80年代生まれになるとW杯メンバーになったのは(次の日韓大会ではメンバー入りする)市川、長谷部、矢野、内田の3名のみ、90年代生まれは現時点で大島1人という状況。

・本大会は3敗で終わる訳だが、今見てもよく健闘した方だと思う。ロシアW杯で初出場したパナマは4位になるイングランドに1-6、3位のベルギーに0-3という結果だったが、日本も3位のクロアチア、ベスト8のアルゼンチンに最少失点で凌ぎ、チャンスも何度か作れた訳だし。ただし最後のジャマイカ戦は勝てた試合だった(3敗という結果から当時の日本にはW杯で勝つ力は無かったとする論もあるが、そういう結果論、言い換えれば形を変えた運命論に私は組しない。やりようではどんな試合にも勝つチャンスはあり、その可能性の多寡があるだけだ)。2戦目まで強豪相手に攻撃を凌いで少ないチャンスを・・という戦い方で3戦目に初めてほぼ同格の相手とやってどう対応すれば良いか戸惑ってる内に2失点してしまった。それでやっと吹っ切れて攻めまくった訳だが、まぁシュートが入らず。特に城がシュートを外しまくったのは今に続くカズ神話に少なからず影響を与えたと思う。あの時城が1点でも取っていればカズを外した批判をある程度は抑えることが出来ただろうし、今もそれほど大きく語られることも無かっただろうから。城が次に代表でゴールを決めるのは2000年のハッサン2世国王杯なのだが、その時の相手はジャマイカで、奇しくもカズも途中出場からゴールを決めているのは何かの縁だろうか。因みに2人にとってこのゴールが代表での最後のゴールとなっている。

 てな感じで試合毎に出場選手を調べるのはかなり労力を費やしたが、記録の1つ1つが当時を思い出す良い触媒になった(笑)ザック以降も追々公開したいが、そろそろJも再開するのでまた時間が空いた時にでも。まぁ再開してもしばらくスタジアムに行けなさそうなので意外と来月辺りに書いてしまうかもしれない。

*1:『解説者の流儀』 洋泉社 2018

出場・招集記録から当時を回顧する(加茂時代)

 毎回その時点での主に首都圏(特に東京)のコロナウイルスの感染状況を備忘的に書いているが、感染者数はやや増加傾向にある。歌舞伎町など夜の街での感染者が多くを占めているという話もあるが、まだまだ予断を許さない。
 今回はファルカンの後任となった加茂監督時代について。その次の岡田監督(第一期)は予選中の内部昇格だったしまとめて記述することも考えたが、とにかくこの時期は試合数が多く、またW杯予選を始め“濃い”期間でフランスW杯本大会まで書くと分量が増えすぎてしまう。ということでこれまで通り監督別に。

■基本情報

・期間:1994年12月~97年10月
・勝敗:46試合23勝10分13敗(Aマッチのみ)
・招集:66名(候補メンバー含む)

 加茂監督時代は大きく3つの時期に分けることが出来る。これを主に期毎に見ていきたい。

①95年~96年夏
 ドーハ組のベテランからの世代交代と新戦力発掘
②96年後半
 アトランタ世代の合流とアジアカップに向けたチームの仕上げ
④97年
 アジアカップ準々決勝敗退を受けたチームの再構築とW杯予選

①期だが加茂監督はまず就任時にラモス、都並、松永、堀池、福田といったファルカン時代に未招集だったオフト時代の主力を呼び戻した。かといって単純に回帰した訳では無く、同時に相馬直樹岡野雅行柳本啓成といった22~3歳の若い選手も招集しており、上記の選手達に加え、柱谷などオフト時代を知るベテラン達は遅くとも95年一杯で代表から去って行く。都並氏のインタビュー*1によると監督とは95年2月のダイナスティカップ韓国戦が同氏の代表引退試合という暗黙の了解があり、また8月のブラジル戦でラモスを起用したのも同じということだが、最初のインターコンチネンタル杯自体が(アメリカW杯出場が適わなかった)ドーハ組のベテラン達への最後の花道的位置付けであり、そこである種の区切りを付けた上での世代交代という方針だったのかな。そう考えるとファルカンが留任していたらこういう事は起こり得なかっただろうし、解任の背景には結果以外のそんな事情(ドーハ組がこのまま代表からフェードアウトすることに対して反感を抱く協会関係者も実は多かった?)もあったかもしれない。まぁ憶測に過ぎないが。

・実は上記の都並氏のインタビューで94年12月に候補合宿したのを知り、そのメンバーを知りたくてメルカリで当時のサッカー雑誌を買ったという(笑)記録上A代表キャップは0だが実はベンチ入り経験はあるだとか、候補合宿には呼ばれていた、というのを知ることが今回の目的でもあるので。メンバーは30名で概ね95年前半の代表戦に招集されたメンバーだったが、意外なところではアトランタ世代の服部年宏がいた。実際に正メンバーとして招集されるのは五輪後の96年8月なのだが、この時点で加茂監督、あるいは協会の期待も大きかったんだなと。

・上で書いたように就任から96年夏の五輪までは主にアトランタ世代より少し上の世代、中堅を中心に新戦力を試す時期でもあった。相馬、岡野、柳本以外にも田坂和昭森島寛晃藤田俊哉名波浩中村忠本田泰人などが呼ばれ、また当時既に30歳のベテランだったがGK小島伸幸、DF神田勝夫らもJでの活躍が評価されて招集された。とにかく戦力になり得る選手を呼んで試してみようという時期だったと言えるし、丁度1971~72年生まれの大卒組がプロ入りして一気に頭角を現す時期でもあった。

・出場記録からは離れるが、この時期で外すことの出来ないのがネルシーニョ次期監督内定→会長の鶴の一声で加茂続投の話。95年末に技術委員会が加茂監督の限界を指摘してネルシーニョ招聘を決めたのだが、長沼会長の判断でそれが覆された。直近5戦ではブラジル、パラグアイに敗れコスタリカ、サウジ(2戦)に勝利という時期だったが、W杯予選を突破するには何か(サッカーの内容?、指導力?)が足りないという判断だったのだろう。まぁ今思えば会長と監督が大学の先輩後輩関係だったのが大きかったのかと思うが、ネルシーニョが監督だったらどんなチームだっただろうか。間違いなく手堅いチームになっただろうし、もう少しヴェルディ勢が呼ばれていたかな。

・続いて②期となるが、アトランタ五輪が終わった96年8月以降は五輪世代が本格合流し、既にA代表に呼ばれていた前園、城以外にも前述の服部や路木龍次川口能活、また五輪には出場していないが同じ世代の楢崎正剛斉藤俊秀らが初招集された。若手からベテランまでバランスの取れたメンバー構成で8~10月の親善試合は3戦3勝。チームはここで一つの完成を迎える。だがアジアカップではプレスをロングボールで外される弱点を突かれて準々決勝でクウェートに完敗、ここから控えめに言って試行錯誤、言い方を変えれば迷走が始まったと思う。因みにだがクウェート戦で2点決められたアル・フーワイディという長身FWは未だに覚えているし、監督のマチャラは後にオマーンバーレーンを率いて何度も日本と対戦することになる。

・翌97年から③期となるが、W杯1次予選でマカオに10-0という試合もあったものの、予選開始直前の3月にはアウェイでタイに敗れるなど(現時点でA代表が東南アジア勢に喫した最後の敗戦)、アジアカップの敗戦を引き摺っていたというか戦術的な手詰まり感があった記憶。その流れを幾分か変えたのが新戦力の台頭なのだが、その中でも中田英寿の加入は巨大なインパクがあった。(アトランタ五輪にも飛び級出場したが)シドニー世代で代表入りした最初の選手だが、デビュー戦が国立の日韓戦でスタメン出場という状況で存在感を見せ、その後のキリンカップでもこれまでの選手とは違うのが当時高校生だった自分にも分かるほどのプレー。華麗なテクニックを見せる訳では無いのだが、相手に寄せられてもバランスを崩さずボールを前に運べるドリブルや、早くて強いパスなど、それまでの代表の試合のリズムを変えたというか、テンポを一気に早め、レベルを引き上げた感があった。デビュー戦から加茂監督最後の試合となった予選のカザフスタン戦までAマッチ11試合連続スタメンという事実だけで、いかに短期間で不可欠な戦力となったかが分かる。
 因みに中田の登場は前園との入れ替わりでもあった。アジアカップ後は海外移籍を目指したが適わず最終的にヴェルディ移籍した時期で*2、それが影響したのか代表に呼ばれてはいたものの出場機会を失っていった。そしてついに代表落ちした試合で選ばれたのが中田であり、一緒にCM出演までしたこの2人は実はA代表では一度も共にプレーしていないという。

・一方で5月から最終予選(9月開始)までに初招集されたのは他に平野孝伊東輝悦鈴木秀人望月重良といったアトランタ世代から西澤明訓下平隆宏渡辺毅森山泰行といった中堅、ベテランまで、また最終予選直前のJOMOカップでは三浦淳宏中西永輔西田吉洋も呼ばれ、中田と合わせて実に12名にもなる。Jも5年目を迎えてリーグで揉まれた選手が日本リーグを知る世代を押しのけて台頭する時期だったとも言えるが、最終予選を前にこれだけ新戦力を呼ぶのはどう見ても試行錯誤してるのが覗えて今見ても大丈夫かと言いたくなる(苦笑)

・そして最終予選を迎える訳だが、当初はアメリカ大会と同じ中立国での開催が予定されていたが開催地で揉めて結局僅か2ヶ月弱でのH&Aリーグ戦となった。まぁこの最終予選は1試合毎に語る要素が多すぎてとても書き切れないので今回は割愛するが、やっぱホームの韓国戦だよなぁ。この試合は加茂監督の采配が批判されたが(リードした後秋田を入れて3バックに変更し、結果韓国に防戦一方となり終盤に逆転を許した。なおこの試合は未だハイライトでも見たくない。山口の歴代最高レベルのゴールはあったのだが。)、ここまでの出場記録から判断するに元々選手交代で流れを変えるとか、相手の弱みを突くとかは得意では無い印象がある。アジアカップでもスタメンはほぼ固定で途中から攻撃で岡野、守備固めに本田というパターンばかり。当時、予選前のNHKのインタビューで「3バックの方がしっくりいっている」てな事を語っていたのを覚えているが、ブラジル戦は0-3、クロアチア戦で4点、ウズベキスタン戦も6点取ったが共に3失点とそんな上手くいってるようには見えなかった。韓国戦では4バックに戻して堅い展開ながら後半半ばについに先制して行けると思ったら最後にまた3バックにし結果は・・と。当時の日本人指導者としては最高レベルの人だったのは間違いないが、今思えば監督の国際経験(特に予選など厳しい試合)の無さが出てしまったというのが率直な感想。

 結局次のアウェイカザフスタン戦で終了間際に追い付かれて加茂監督は解任され、後任は岡田コーチが内部昇格することになる。

出場・招集記録から当時を回顧する(ファルカン時代)

 6/15にJの日程が発表され、いよいよ再開までのカウントダウンが始まった。最初は無観客、もといリモートマッチとなるが、夏休みはどこか未踏スタジアムで観戦出来るようになるのを願うばかり。
 今回はオフトの次、ファルカン時代を。
■基本情報

・期間:1994年5月~10月
・勝敗:9試合3勝4分2敗
・招集:31名

・最初のキリンカップではドーハ組は9名、そして初代表は12名でその内8名がこの大会の2試合で代表デビューを果たした(今藤幸治名塚善寛岩本輝雄前園真聖佐藤慶明、小倉隆史本並健治遠藤昌浩)。出場機会の無かった初招集組には数年後に主力としてフランスW杯予選突破に貢献する秋田豊山口素弘もいたが、2人ともファルカン時代を通じて出場機会は無し。特に秋田はファルカン時代の全試合で招集されながら出番が無く、その後の加茂時代と合わせて10試合以上もベンチ入りが続いた後ようやく代表デビューを果たしたのは初招集から1年半後の95年10月。

・色々な意味で20年後のアギーレに似た展開だった。むしろアギーレがファルカンのデジャブと言うべきか。類似点を挙げると
①アジアでベスト8に終わり就任から僅か半年で解任
  ※ファルカンアジア大会、アギーレはアジアカップ、但しアギーレは結果とは別の問題での契約解除だったが。
②緒戦でサプライズの初招集組がいたものの、結局その時以降呼ばれず。
  ※ファルカンでの佐藤慶明、アギーレは皆川佑介坂井達弥。恐らく協会の推薦ではなく自分やスタッフが実際に見て選考したのだろう。
③最終的には選考も妥当な線に落ち着き、そこそこ良いチームを作ったものの最後は惜敗
  ※ファルカンは終了間際の嘘くさいPKによる失点、アギーレはPK戦

アジア大会は最後の怪しいPKで韓国に敗れた訳だが、当時の韓国はW杯を戦った選手をベースにほぼベストメンバーで臨んでおり(韓国ではアジア大会の金メダルは兵役免除に繋がる為、それを意識したメンバー構成となる。)、そういうチームに対して若返りを図っているチームが終了間際まで2-2で食らい付いていたのは一定の成果ではあった。まぁ日本の得点者はカズ、井原で、若返りと言いつつもシビアな試合で頼りになるのはやはり経験豊富な選手というのもまた然り、なのだが。

・招集人数は在任期間の短さやオフト時代の少なさ(1年半で33人)を考慮すれば多いようにも見えるが、後の代表監督の同じ試合数消化時点と比べると少ない。メンバーを固定していた印象の強いジーコ41人、ザックでも36人。そもそも当時は若返りを図りたくてもなかなかそれに値する選手がいない世代交代の狭間の時期という難しさはあったかと思う。オフト時代の課題だった選手層の薄さが急に改善された訳でも無く、プロリーグ2年目ではそこで揉まれた選手が泉のように湧いてくる訳でも無かった。それから2年ほど経つとアトランタ五輪世代(1973年生まれ~)やそのすぐ上の1970~72年生まれの世代が続々と台頭してくるのだが、94年時点でクラブで活躍して代表の常連になっていたこの世代は前園、岩本くらいで、後はまだプロ入りして日が浅かったり学生だった。

・参考までに後のフランスW杯メンバーで1970年代生まれの94年当時を振り返る。
世代が若い順に

小野 :中学2年(U16代表)
中田 :高校3年(U19代表)
楢﨑 :高校3年(U19代表)
川口 :高卒プロ1年目(松永の壁に阻まれサテライトが主戦場)
城  :高卒プロ1年目。ファルカン時代に招集歴あり。
伊東 :高卒プロ2年目
平野 :高卒プロ2年目
中西 :高卒プロ3年目
服部 :大学中退しプロ1年目
斉藤 :大学3年
岡野 :大学中退しプロ1年目
森島 :セレッソは当時まだJFL
名波 :大学4年
名良橋:JFLから昇格1年目。アジア大会メンバー。
相馬 :大卒プロ1年目
秋田 :大卒プロ2年目

書き出して思ったがこの年代で本大会登録22名中16名を占め、いかにこの時期の日本が若い世代ほどレベルが高かったかも分かるのだが。

 実は当時中学生だった自分はこの時の代表に対して「こんなの俺の知ってる“日本代表”じゃない」とばかりにオフト時代に比べて醒めた目で見ていた。岩本がスターシステムに乗っかっていて10番まで付けていたのはどうなのかとも思っていた。今はW杯予選が終わり、監督も代われば次の大会に向けて若い世代が代表に入るのは当たり前で、殊にオフト時代は主力の年齢が20代半ば以上と実はやや高めだったので(最も若い森保、北澤が25歳)、世代交代は必至だったのは十分理解出来る。また新しい選手を腐すのも結局はそれまでの選手に対する思い入れの裏返しに過ぎない。そんな事もあり、近年ザッケローニ時代に主力が固定されて人気が出たことも、その後選手が入れ替わってあまり一般受けしない(という報道をされる)のも全て同意する訳では無いが少なくとも理解は出来るし、例えばアギーレ時代の武藤に対しては94年当時の自分が岩本に対して抱いたのと同じ感情を抱いた人がいたのだろうと思う。
 今改めてこの時代を振り返ると、在任期間の短さやこれ以降代表に呼ばれなくなった選手の多さでどうも存在感が薄く、言わば忘れられたチームという印象がまずある一方で、当時の選手層では誰がやっても難しい時期であり、ファルカンがその責任を背負わされたという見方も出来る。世代交代は加茂監督の下で本格化するが、文字通りオフトと加茂の間を埋める“繋ぎ”の期間だった。世代交代の狭間という意味ではシドニー世代が本格合流前で、フランス大会の主力+20代半ばの世代を試していたトルシエ時代の99年にも似ているかな。

 さて次回以降は加茂・岡田時代を振り返るが、とにかくこの時期は試合数が多くて追うのがキツい(苦笑)

出場・招集記録から当時を回顧する(オフト時代)

 さてJの中断期間中の場繋ぎにやってきたこのシリーズだが、具体的な再開日が決まると(別に気にする必要は無いのに)それまでに完結させなければという焦りが生まれてくる笑。これまでは約二週置きに書いていたが、これからは少しペースを上げ、J1再開日(7/4)までには終わらせたい。その前提として当時の記録を調べ、まとめる作業が必要となるが、ひとまず以下4回の更新を予定。
・オフト
ファルカン
・加茂
・岡田(第一期)
今回は現在の日本サッカーのある意味原点とも言えるオフト時代に遡る。

・期間:1992年5月~1993年10月
・勝敗:27試合16勝7分4敗
・招集:33名(候補メンバー含む)

・こうして在任期間を見ると緒戦から最後のイラク戦まで1年半も無いというのに驚くが、その間にAマッチ27試合にクラブチームや選抜相手の11試合を合わせた38試合も戦っているのにもまた驚かされる。丁度この時期は日本リーグからJリーグへの移行期で、最後の日本リーグ(91-92シーズン)が92年3月に終わり、その後半年の間隔を空けてJリーグのプレイベントとして第1回ナビスコ杯(92年9月~11月)が開催され、またJリーグ開幕は翌年の5月であり、日程は比較的余裕があった。ただその空いた日程に代表のスケジュールを隙間無く詰めた為に代表選手達にとってはかなりの負荷が掛かったのだが。

・一方でこうして試合を重ねることはプロ化を控えたサッカーそのものや選手、そこから派生する所属チームをアピールするショーウインドウの役割を果たしていたのかなと思う。もちろんそれはダイナスティカップアジアカップの優勝やW杯予選の快進撃でそれまでと違う強い代表を印象付けられたことも大きかったと思うが。後述するがあたかもクラブチームの如く代表メンバー、出場メンバーが固定化されていたことも効果を増したのでは、と思う。

・Aマッチ以外で11試合と書いたが、その内9試合はアウェイ。当時は今のAマッチデーの様な日程は整備されておらず、また予選や国際大会以外で海外で日本と対戦する(出来る)代表チームも少なかった為、遠征=現地のクラブや選抜との対戦だった(故にオフト時代までの代表選手はAマッチ出場数がそれほどではなくても総試合数は100試合を越える選手が多い)。このオフト時代以降はアウェイでも代表チームとの対戦が主となり、それ以外は90年代こそJリーグ外国人選抜と対戦する場(JOMOカップ)があったが、今はチャリティとして代表とJ選抜が対戦するとか、W杯やアジアカップ前に現地のクラブと練習試合する程度になっていく。そういった意味でこの時代は代表チームのマッチメイクという点で転換期ではあった。ちなみに2試合あったホームのクラブチーム戦はユベントスを招いた92年8月の「サッカーフェスタ」というイベントで、現在も欧州の強豪が夏に東南アジアで代表チームと対戦したりするが、位置付けとしてはそれに近いものがあるかな。

・招集人数は候補を含め33名だが、その内Aマッチに出たのは22名、クラブチーム戦のみに出場は6名、全く出場機会が無かった選手も6名に上り、在任期間が短かったという事情はあるが、以降の時代と比べてもかなり少なく、メンバーはほぼ固定されていた。そもそも緒戦(92年5月)のアルゼンチン戦のスタメンからし
GK:松永
DF:勝矢、柱谷、井原、堀池、都並
MF:森保、北澤、ラモス
FW:カズ、中山
この全員が1年半後のW杯最終予選メンバーに選ばれている。Aマッチ27試合中10試合以上出たのは上記11名に吉田、福田、高木を加えた14名のみ。これに第2GKの前川を加えた15名がコアメンバーだった。
 それ以外の選手は武田(6試合)、沢登、長谷川(5)、浅野(3)、三浦ヤス(2)、平川、黒崎(1)といった状況で、この中では沢登が1次予選のアウェイUAE戦で貴重な同点弾を決めたり、最終予選から加わった長谷川が最後レギュラーとなったのが目立つ程度。多くは代表に継続的に呼ばれてもなかなか出番は回って来ず、マリノス(日産)の山田隆裕神野卓哉フリューゲルス全日空)の大嶽直人といった選手はアジアカップにもエントリーしていたものの結局オフト時代にAマッチに出場することは無かった。山田、大嶽は次のファルカン時代にデビューを果たすが、神野はキャリアを通じてAマッチ出場は無し。アジアカップに登録されながらAマッチ出場が無かった珍しい事例として以前オシム時代の太田吉彰を挙げたが、この選手もその一人。

・メンバーが固定されたのはまず短期間でW杯予選突破を目指すにあたってある程度メンバーを絞って、という方針だったのだろうし、またそもそも当時の日本は層が薄かったという事情もあっただろうと思う。この方針は最終予選を迎える頃にはJリーグ開幕による主力の疲労蓄積や負傷、チームとしてのコンディション低下、あまりに短期間で成果を出した為に最終予選の対戦国から警戒された等の副作用もあった。あのイラク戦は最後の時間の使い方に焦点を当てて言及されることが多いが、よりマクロな視点だとメンバーをやり繰りしつつどうにか勝点を積んでいったものの、上記の層の薄さやコンディション低下をカバーするにはあと一歩及ばなかったという見方も出来る。

・以降の代表でテーマとなる五輪世代との融合だが、そもそも五輪がU23化されたのは92年のバルセロナ五輪から。この大会で日本は最終予選で敗退するのだが、予選は92年1月開催だったので合流自体は特に問題は無かった。最終予選に登録されたメンバーからは前述の神野の他に下川健一石川康小村徳男沢登正朗が招集(上記山田も五輪世代だったがエントリーされず)。この中で沢登のみAマッチデビューし、上述の通り予選で貴重なゴールを決めるなど、一定の出場機会を得た。因みに五輪最終予選メンバーには他に名波、相馬、名良橋といった後にフランスW杯予選突破に貢献し、本大会にもエントリーされた面々がいた。

・当時の試合を見るとカズはドリブルやシュートフェイントなど一つ一つの動き周りと違う。感覚としては久保建英が国内クラブや代表でプレーするのに近いかな。セットプレーのキッカーも務めていたが、シンプルにこのチームで一番上手かったからなのだろう。またラモスも今改めて見ると後の名波や遠藤、柴崎のような中盤のプレーメーカーであり、パスでチームのリズムを変えることの出来る選手だったんだなと。カズ以外にも高木、中山と点取り屋がいて、これに中盤の司令塔、強固なCB(井原、柱谷)、攻撃にも絡めるSB(都並、堀池)、また中盤の守備や運動量でチームに貢献出来る職人的選手(森保、北澤、吉田)がいるバランスの良さ。これに優秀な指導者が付けば確かにそう負けないチームになるなと。

・オフトは指導にあたって「トライアングル」、「アイコンタクト」といった用語を使ってそれが今で言うバズワード化し、その後外国人監督が就任する度に特定の用語とその人のサッカー観を関連付けてイメージされるようになった(トルシエの「フラット3」、「ウェーブ」、オシムの「走る」、「水を運ぶ人」、ハリルの「デュエル」等)。以前古いサッカー雑誌を読む機会があって丁度バルセロナ五輪予選のレポートだったのだが、そこで書かれていた練習メニューはシュート練習かサイドからのクロスを合わせるパターンばかりというもの、それを踏まえるとオフト就任までの日本はそうした言葉が新鮮に聞こえたほど選手以上に戦術面が課題だったのだろう。


 と長々と書いてしまったが、丁度サッカーを観始めた時の代表だけに当時の記憶を懐かしく振り返ると共に、今改めて見返すと思うところが多々あって書き連ねてしまった。今でも当時のコアメンバーを背番号付で言えるくらいだし(笑)、個人的にも原点とも言える代表だけにこうなってしまう。

出場・招集記録から当時を回顧する(第二期岡田時代)

 さて前回の更新からまた2週間が経った。あれから緊急事態宣言は解除され、一桁台に収まった東京の感染者数はこの1週間は20名前後と第2波の予兆を感じさせており、予断を許さない状況には変わりない。ただJ1は7/4、J2、J3は6/27とついに具体的な再開日が公表され、社会と同じくサッカー界も再始動に向けて動き出している。

 今回はオシムの後を引き継いだ岡田監督(第二期)を振り返ってみる。

・期間:2007年12月~2010年6月
・勝敗:50試合26勝13分11敗
・招集:92名(候補メンバー含む)

オシム、岡田両氏はサッカースタイルはかなり異なっていたし、普通ならトルシエジーコの如く継続性の欠如は指摘されるべきなのだろうが、代表監督が病に倒れるという緊急事態において、W杯を経験し、その後Jリーグでも昇格やリーグタイトルを獲得した日本人指導者がフリーだったというのは僥倖という他無い。

・就任当初はオシム時代のメンバーをベースに戦ったが、それから徐々に新メンバーを呼んでチームを作り替えていった。そうしたテストを可能にしたのが試合数の多さ。2008年はW杯もアジアカップも無い年だったが19試合もあった。当時は2月、8月にもAマッチデーが設定され、それ以外にも1月に国内組だけで親善試合×2、2月に東アジア選手権、5月末の欧州のシーズンオフにもキリンカップ(2試合)など少しでも日程が空いていれば試合を組んでいた状況。ちなみに19年はアジアカップは決勝まで勝ち進み、コパアメリカやEAFF選手権もあったので23試合と近年に無い試合数となったが、18年はW杯イヤーながら14試合、17年13試合、16年10試合と08年当時に比べて減っている。

・前回に続いて招集されながら出場機会の無かった選手を。菅野孝憲岩下敬輔山本海人(3試合)、井川祐輔(2)、工藤浩平阿部翔平森島康仁森重真人谷口博之石櫃洋祐酒井高徳大迫勇也青木拓矢村松大輔(1)。この中で、森重、酒井、大迫以外はキャリアを通じてA代表キャップなし。国内で目に付いた選手はとにかく呼んでいたというのが良く分かる。

・岡田さん自身は2度目の代表監督となった訳だが、やはり98年当時とは明らかに異なり、指導者としての成熟を感じる(ピッチ内外を含めた)チーム運営だった様に思う。第3GKに川口を選んだのは国際大会におけるチームのまとめ役として期待したからだと思うが(当時の川口は衰えが目立って代表レベルとしては少し苦しく、3人目のGKは西川が有力視されていた)、これはフランスW杯で城をFWの軸に据えたが故にカズを外すことになって大騒動になってしまった反省だったはず。
 また代表で試してみる価値があると判断すれば例えJ2からでも選考したり(香川、大黒)、将来への布石としてW杯に若い世代(香川真司山村和也酒井高徳永井謙佑)を練習パートナーとして帯同させる(これはその後も踏襲されている)など、単なるtrainer、coachではなく、manager的な立ち位置だったように思う。

・サッカースタイルはオシム時代から重心を後ろに下げ、運動量や速攻が重視された。選考で分かりやすかったのはCBにビルドアップより高さ、強さを求めていた点で、具体的には中澤、闘莉王に続く選手をずっと探していた。高木和道寺田周平(32歳で初代表。これも前例に囚われない選考と言えるか)、岩政大樹栗原勇蔵らが起用されて最終的に南アには岩政を選出。

・最終的に南アW杯ではそれまでとはメンバーを替えて阿部をアンカー、長谷部、遠藤の3人で中盤を組み、1トップの本田を大久保、松井の両サイドがフォローする布陣になった訳だが、前年11月にアウェイで南アと対戦した時には既にこのアンカーを置いた布陣を試しているし(この時は稲本、遠藤、長谷部の中盤に岡崎1トップ)、言われているほど直前の突貫工事でも無いんだな。監督としては数あるオプションから1つを選んだに過ぎないのだろうと思う。

・今回出場記録を見て目を引いたのは、岡崎慎司興梠慎三。この2人は同じ86年生まれで初代表、代表デビュー戦も同じ08年10月のUAE戦なのだが、この第二期岡田時代だけでも岡崎は32試合17ゴールで興梠は11試合無得点。対照的な結果となってしまった。まぁプレースタイルは間違いなく岡崎の方がハマってたよなぁ。というか岡崎のあのプレースタイルは戦術など超越したものだったし、だからこそ代表であれだけの実績(現時点で119試合50ゴール)を残せたのだと思うが。興梠は当時は鹿島だったが、コンビを組むアタッカーとの相性やチーム戦術で持ち味が出る/出ないが大きく変わるタイプだけに代表とはあまり相性は良くなかったかな。

・実は駒野こそはオシム~岡田時代を通じて最も継続的に代表に呼ばれ続けた選手。オシム~岡田時代でAマッチ70試合、トレーニングキャンプ9回の招集機会の中で、この選手が招集外となったのは国内シーズンオフの開催で常連組を呼ばず若手中心で望んだ10年1月のイエメン戦と負傷辞退した同年4月のセルビア戦の2回のみ。ある意味でドイツから南アまでの4年間を代表する選手とも言えて、その選手が最後PKを外したのも何か象徴的だなと。

 振り返る途中で気付いたが、もう南アW杯が10年前という事実。当時はもちろんこのblogはあったし既にtwitterもやってたがFacebookはまだやっておらず、連絡もキャリアメールでLINE、メッセンジャー等はまだ使ってなかった。時代は大きく変化しているが感覚としてはつい最近に思えてしまう。2020年代も同じように過ぎ去るのだろうか。
 次はザッケローニ時代もしくは時代を遡ってオフトやファルカン、加茂、岡田(第1期)だな。

出場・招集記録から当時を回顧する(オシム時代)

 さて、相変わらずJは中断したままだが、感染者数は減少傾向にあって週明けには首都圏の緊急事態宣言も解除される見通しという。Jも6月末に無観客で再開という具体的な話が報じられるようになった。という訳でこのシリーズもまだ続く。今日は前回から続いてオシム時代を。
■基本情報

・期間:2006年8月~2007年10月
・勝敗:20試合12勝5分3敗
・招集:66名(候補メンバー含む)

・前回書いたように、ジーコトルシエが遺したシドニー世代を中核に戦い、それより若い世代の抜擢には消極的だったため、このオシム時代で世代交代を図らざるを得なくなった。それ故かジーコ時代に無かった候補合宿がこの時代にまた復活し、1年半に満たない在任期間での候補メンバー含めた招集人数は66名と、これはジーコ時代の4年を通して招集された67名に匹敵。

オシムは緒戦(トリニダード・トバゴ戦)から異例の選考だった。最初12名だけ発表し、後から6名を追加招集。この試合ではドイツW杯組は川口、三都主、坪井、駒野の4名のみで、大量9名が代表デビュー(闘莉王田中隼磨鈴木啓太、山瀬、我那覇、坂田、栗原、中村直志小林大悟)。ちなみにこの試合にはいつもの国際試合同様に相手国のVIPも来ていたのだが、そのジャック・ワーナーという男は北中米カリブ海協会全体を牛耳り、数々の汚職で悪名高い人物。(後に失脚)
※当時の観戦記を
barcaw.hatenablog.com

・合宿に呼ばれた候補メンバーを除き、正メンバーとして試合に招集されながら出場機会の無かったメンバーは伊野波雅彦(9)、山岸範宏(7)、太田吉彰(6)青山直晃(3)、山口智本田圭佑(2)、野沢拓也、松橋 章太(1)(カッコ内は招集試合数)の8名。伊野波と太田はアジアカップメンバーに選ばれていたのでその6試合が加算されて多くなっている。また山岸はオシム就任後06年一杯は川口の控えGKとしてベンチ入りしていた。なお伊野波、山口、本田以外の5名はキャリアを通じてA代表キャップは無し。特に太田はアジアカップにエントリーされながら代表キャップが無い珍しい事例。

・世代交代という点では五輪代表(反町監督)との連携が取れていたのもこの時期で、06年時点で五輪世代から青山直晃西川周作梅崎司伊野波雅彦水本裕貴が招集され、07年末の退任まで、つまり北京五輪の前までに本田圭佑家長昭博水野晃樹も招集。合宿にも林彰洋内田篤人柏木陽介を呼んでいる。余談だが、オシムは本田を代表に呼びつつもそこまで評価は高くなかった節がある。GK西川、CB青山も出場機会は無かったが、本田は他の攻撃的なポジションの家長や水野、梅崎が終盤の途中出場などで代表デビューしたのに対してベンチ入りした2試合とも出場機会は無かった。本田の代表デビューは08年6月。どうもオシムは前目の選手は中村俊輔などテクニカルな選手を好んでいたようにも。

オシム時代の3敗のうち2つはサウジ相手のもの。伝統的にサウジとは相性が良い中でこの時代は1勝2敗と分が悪い。またアジアカップも準々決勝以降は豪州、サウジ、韓国相手に2分1敗(PKは引分け扱い)とアジアの強豪同士では勝ち切れず、この時点ではまだチーム作りは道半ばといったところ。

アジアカップ後は欧州でEURO2008プレ大会相当の3大陸トーナメントでオーストリア、スイス相手に1勝1分、国内でアフロ・アジア選手権でエジプトに4-1圧勝という結果。この頃から大久保、前田、松井といったアテネ世代が徐々に代表でも頭角を現し、チーム作りは次の段階に入ったかなと思った矢先に無念の退任となってしまった。ドーハや98年カズ外しなど代表における“if”は数多あれど、「もしオシムがそのまま指揮を執っていたら」もまた色々思いが巡る。

・個人的には純粋なサッカーの面白さという点で2000年アジアカップ辺りのトルシエ時代と並ぶエンターテインメント性の高さだった。パスのテンポが良く、また狭いエリアで回すだけで無く中村俊輔遠藤保仁中村憲剛といった選手達が時には逆サイドに大きく振って展開するなど、長短のパスのバランスも良かった。中盤にはテクニカルな選手を並べる一方でボランチ鈴木啓太を置いてカバーする布陣とか、後ろに走れる選手を並べたのは、ユーゴ代表でストイコビッチサビチェビッチプロシネツキらを並べつつ労働者タイプも軽視しなかったのに通じる。

・上記のifを考えてみると、あのまま指揮を執っていたらどこかで点取り屋の問題に突き当たっていたとは思う。アジアカップは高原がいたが08年以降クラブで低迷して代表にも呼ばれなくなった。後任の岡田さんは大久保や田中達也矢野貴章、興梠、森本、岡崎、J2にいた大黒まで呼んで試したが、最終的には本田が1トップで大久保、松井が両サイドからフォローという布陣でW杯を戦った。オシムならどうしただろうか。

次回はまた2週後くらいにオシムの後任となった第2次岡田時代をば。

出場・招集記録から当時を回顧する(ジーコ時代)

さて前回の記事から約半月が経ったが状況に変わりは無い。緊急事態宣言も5月末まで延長という話だし、今月もまた観戦の無い週末を過ごす事になる。ということで今回はジーコ時代を振り返ってみたい。
基本情報

・期間:2002年10月~2006年6月
・勝敗:72試合37勝16分19敗
    (山本昌邦監督代行による1試合を含む)
・招集:67名

トルシエの時は年別に書いたが、今回は雑感を箇条書きに。
・招集人数はトルシエ時代(104名)のおよそ2/3の67名。ただジーコ時代はトルシエ時代に当たり前だった候補合宿が無かった事情もある。これにより「候補合宿だけ呼ばれたメンバー」がおらず、故に人数も少なくなっている面はある。

・招集されベンチ入りしながら出場機会の無かったメンバーは
 名波浩小村徳男上野良治下田崇明神智和平山智規市川大祐手島和希廣山望永田充
 他にアジアカップの予備登録メンバーとして羽生直剛が登録されていた。(試合出場無し)
 この内、平山、手島がキャリアを通じて国際Aマッチ出場無し。 

・何より覚えているのは緒戦(2002/10/16ジャマイカ戦@国立)のメンバー。日韓W杯が終わり、次はどんな新しいメンバーが入るのかという期待があった中で(実際メディアでは新井場の名が挙がっていた記憶)、蓋を開けるとW杯はベテラン枠で入った秋田が残り、名良橋が復帰、そして負傷辞退した宮本の代わりにこれまた久々復帰の小村ってねぇ。メディアでは中田ヒデ、中村、小野、稲本の“黄金の中盤”がクローズアップされていたが、個人的にはこのベテラン重視路線に軽く白けたのは覚えている。

・言ってみればトルシエからの易姓革命とでも言うか、チームコンセプトが180度転換された故に、中心メンバーはそれほど変わらずともそれをサポートする脇役達が大きく変わった。特に中盤はトルシエ時代に活躍した戸田、明神といった職人的選手は招集すらされないか呼ばれても出場機会が無く、よりテクニカルな選手を重用。特に印象深いのは本山がやたら起用されていたことで、2003年9月のセネガル戦でジーコ体制初招集されると、ドイツW杯直前のキリンカップ(2006年5月)まで継続的に呼ばれて、途中出場がメインながら出場試合も多かった。当時TVで視ていてあまり攻撃で貢献しているようには見えないのに何故ここまで起用されるのか不思議だった。

ジーコはチーム内の結束と序列を重んじる監督だった。クラブでよほど試合に出てないとか不調なら別だが、基本的には代表チーム内で明確な序列があり、Jで活躍してもなかなか呼ばれず。闘莉王は04年時点で既に国内有数のCBだったが、CBは宮本、中澤、坪井、田中誠、茂庭、他に茶野といった序列があり、結局招集すらされなかった。おそらく04年アジアカップで優勝したメンバーに信頼を置いていて、同年のアテネ五輪メンバーの優先順位は低かったのだろう。加地などはクラブで特別指定だった徳永にポジションを奪われた時期もあったのだが、ジーコの信頼は揺らがなかったし徳永が呼ばれる事も無かった。結局ドイツW杯にエントリーしたアテネ世代は手薄だったSBの駒野と田中誠の負傷で急遽呼ばれた茂庭のみで、阿部、今野、松井、大久保といった面々は呼ばれなかった。松井は既にフランスで活躍していたし、シドニー世代の中盤には無い特長もあったので呼ばれるかなと思っていたが。

・この結束&序列重視というのはブラジル人監督、特にドゥンガやフェリペ・スコラーリなど代表監督によく見られる傾向。タレントが常に現れて“世代交代”という概念をあまり意識しなくてよい土壌、強烈な個性を持つ(≓我が強い)メンバーが多い中でチームを1つにまとめる必要性があるからと思うが、結果的にはトルシエ時代に築いた若きタレント集団という資産を食い潰した感も。

・戦術的には“人”が全ての基本というか、特定の布陣に選手を当てはめるのではなく、出場するメンバーの連携を深めることでチーム力を上げていくタイプ。故にターンオーバーする時もボランチやCBの片方とかではなくDFラインや中盤まるごと変えることが多かった。この手のタイプはやはり中村俊輔との相性は良く、後年マリノスでの樋口時代同様に輝く期間。それだけにドイツW杯での(不)出来が日本の結果を決めてしまった面もあるが。

ジーコ時代で忘れられない選手が久保竜彦トルシエ時代は緒戦エジプト戦からW杯直前まで断続的に呼ばれつつも結局Aマッチ14試合ノーゴールに終わった中で、ジーコ時代は18試合11ゴール。中でも2003年末の東アジア選手権から翌年6月W杯予選インド戦までの約半年間が一番輝いた期間だった。丁度マリノスがJ連覇した頃でもあったな。チェコ戦の弾丸シュートやアイスランド戦のテクニカルなゴールなど、この短い期間にこの選手が持つポテンシャルを十分に知らしめたのだが、それだけに負傷で04年アジアカップ、05年コンフェデ、そしてW杯を逃したことが残念。

・そして最後のドイツW杯だが、結果はともかく緒戦豪州戦での茂庭、3戦目ブラジル戦での高原と3試合中2試合で途中出場しながら負傷で途中交代したのはある意味この大会の日本を象徴しているなと。3戦目で交代枠を1つ余計に使ってしまった故に、フィールドプレーヤーで唯一遠藤だけ出場機会が無かった。その遠藤がこの後黄金世代で最後まで代表に残って代表試合出場記録を更新するんだから分からないものだな。

 年齢的にはこの大会はシドニー世代の集大成となるはずだったがそれは適わず、W杯後はジェフで実績を残しW杯など国際経験も豊富なオシムに再建が委ねられることになる。